278 再び、慶央へ……・その8



 荘家の屋敷の厨で梨佳を待っていたのは、火が燃え盛っているかまどと荘英卓の一人だった。

 いつもいる大勢の下働きの男女は遠ざけられていた。


「梨佳さま、梨佳さま」と、娘であるのに荘家の養女ということで、敬語で気を使ってくる母の萬姜の姿もない。梨佳のこともそして厨という場所も大好きな白麗と嬉児さえも、その姿をちらっとも見せないのは、さすがに不思議ではある。


 しかし梨佳の立場としては、「男のおれが菓子作りに興味があるなどと知れたら、いい笑いものだ」と言って、屈託のない笑いを浮かべる男の言葉を信じるしかなかった。たとえその男が、荘新家の宗主として生業に忙しい日々を送り、名門承家の千夏との婚儀を数日後に控えていたとしても。


 たすきを両袖に回してきりりと縛り、前垂れをつけて髪を布で覆い厨に立つ。


 一晩水に浸けておいたはすの実を、鍋に移しかまどに載せ茹で始める。蓮の実が柔らかく茹で上がる間に小麦粉を練って、餡を包む薄皮作りの準備だ。


「葛の根を粉にして晒したものを少し加えると、薄皮の白さに艶が出ます」


 わかっているのかわかっていないのか、たるをひっくり返したものに腰をかけて、梨佳の手元を見ていた英卓が頷く。

 そして、梨佳の休みなく動く手の手際のよさを褒め讃えた。


 茹であがって柔らかくなった蓮の実のざるに取り湯を切って、鉢に入れる。


「滑らかになるまですり潰して、キビの砂糖と花生ピーナッツの油を加えます」


「おお、麗の好物の甘い餡というものは、そのようにして作るのか?

 それにしても、とんでもない量のキビ糖だ。

 見ているだけで、おれは頭痛がしてくる」


「これに香ばしく炒った松の実を加えるのです。

 舌触りが違うものが混じると甘ったるさが消えます」


「なるほど」


「あとは、この出来上がった蓮容餡をちょうどよい大きさに丸めるだけ……」


 突然、英卓が立ち上がると、ねっとりと仕上がった薄茶色の餡の入った鉢を覗き込んだ。

 餡を丸めていた梨佳の手が止まる。


「英卓さま、そのように覗き込まれては、頭が邪魔になります」


「これはすまなかった……。

 ……、……。

 ところで、梨佳、折り入っておまえに頼みがある」


「はい? なんでございましょうか、英卓さま?」


 梨佳の問いに、英卓は懐から小さな小箱を取り出す。

 そして、それを手の平に載せると、片手で器用に留め金を外して小箱の蓋を跳ね上げた。小箱の中には小さな丸薬が二つ並んで収まっている。


「この丸薬の一つを、麗の食べる饅頭に混ぜて欲しい」


「えっ? いま、なんとおっしゃられました?」


「この丸薬の一つを、麗の食べる饅頭に混ぜて欲しいと言った。

 梨佳、おまえが案じることはない一切ない。この丸薬は、麗の体を傷つけるものではない。かえって今より、麗の心と体は爽快になる。

 それはこのおれが約束する。


 おまえはこの丸薬の一つをその丸めた餡に混ぜて、そしてそのことを夫の如賢にも母親の萬姜にも、おまえが一生を終えて墓に入るまで誰にも話すな」


 しばらく餡にまみれた自分の手を眺めて思案していた梨佳だった。再び顔を上げた時、あたりを憚った小声ながらきっぱりとした口調で、彼女は答えた。


「英卓さま、承知いたしました」


 英卓の物静かなそれでいて逆らうことを許さぬ言葉に押し切られてしまったこともある。厨で彼と二人きりになった時、ただ事ならざることが起きると、漠然とした覚悟もあった。


 そして何よりも、たとえ女であっても、その一生において何度かは、毅然と言葉を発しなければならない時というものがあるのだ。





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