277 再び、慶央へ……・その7



「桃秀、あの空のずっと向こうに、これから行く慶央という町があるのですよ」


 わが子を抱き上げて窓の側に立った梨佳は、南の空の先を指さして言った。

 母の真似をして、桃秀もまた小さな可愛らしい手を伸ばし、最近覚えたばかり言葉を繋げて回らぬ舌で言う。


「おかあちゃま、あっち」


「そうそう、あっちの方向。

 美しい街並みの続く慶央は、冬暖かく住みよい所です。

 お母さまが、荘興さまや英卓さまや白麗お嬢さま、そしておまえのお父さまと出会った街です」


 そして、いずれその地でおまえのお父さまとお母さまは骨をうずめることになるでしょうとも言いたかったが、あえてそれは言葉にしなかった。


「桃秀、おまえもきっと気に入りますよ」


 夫の如賢から慶央行きを聞かされた時は急なことで、驚きしかなかった。

 慶央に着いても住む家さえなく、新しく開いた店で子を育てながら夫の手助けも出来るのかと、考え始めると不安の種は尽きない。

 慣れぬ荷造りに追われながら、ついつい愚痴をこぼしてしまう。


 しかし下女の言うように、いずれはこの屋敷を出て自立しなければならない自分たち夫婦にとって、今回のことは願ってもない幸運でもあることもわかってはいる。


――白麗お嬢さまとご一緒に慶央から安陽に来て、またご一緒に戻ることが出来るとは、まるで天から降ってきたような幸運……。

 いや、これは本当に偶然のなせる業なのだろうか?――


 母に抱かれて甘えが出たのか、生えそろったばかりの小さな歯を見せて、ふぁぁっと桃秀が欠伸をした。




 あの日の昼過ぎ、梨佳のもとに荘家の家令である允陶からの文が届いた。そして急ぎ返事を持ち帰りたいと、使いのものが言う。


――なぜに允陶さまから?

 もしかして、お母さまに、いや弟の範連か妹の嬉児に、何ごとか不吉なことが起きたとか?――


 いぶかりながら焦る手で文を開くと、そこには允陶の細かく几帳面な字が並んでいた。


『梨佳さまの作られた菓子を白麗お嬢さまに食べさせたいと、若宗主が望まれている。そして、梨佳さまを手伝って、ご自分も菓子作りに加わりたいともお望みだ。ついては急なことながら、明日、菓子の材料をご持参のうえにこちらに来て欲しい。

 馬車を差し向けるので、万障繰り合わせてよろしくお願いしたい』


 そして最後に付け加えた文面が、いかにも長年、気配り目配りで生きて来た允陶らしかった。


『揃わぬ菓子の材料があれば、使いのものに言伝いただければ、こちらにて揃えておく』


 案じていたことではなかったと胸を撫でおろし、もう一度読み直しす。

 丁寧な言葉で書き連ねていながら、明日という日付けは変更のしようがないことだと知った。


 急ぎ足で沈家のくりやに向かう。


 食材を並べた棚には、干したはすの実に上質のキビ砂糖。きめ細かく挽かれた白い小麦の粉と花生ピーナッツの油、そして松の実。

 白麗を喜ばせる、甘い蓮容餡れんようあんの入った蒸し饅頭を作る材料は揃っていた。


 そして、山野草の葉や実を粉末にして調合した隠し味。

 これは彼女の部屋にある。


 梨佳の作る料理や菓子が美味く体によいと皆に褒めそやされるのは、彼女の人を喜ばせたいという優しい想いと、日々に工夫を重ねる賢さの賜物だ。






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