275 再び、慶央へ……・その5
「い、い、いま、なんて言ったんです?」
「な、な、なんと、峰さん、正気ですか?」
男たちの素っ頓狂な声が上がる。
その声と同時に、狭い部屋を仕切っていた垂れ幕が跳ね上がり、隣にいた女たちがなだれ込んできた。垂れ幕から初めに顔を覗かせた女が足をもつらせて転んだので、あとに続く女たちが重なって倒れた。もろ肌脱いで白塗りの化粧の最中だったので、皆、上半身はほぼ裸だ。
まるで白い重ね餅のような状態で転がったまま、峰貴文を見上げた女たちもまた口々に叫んだ。
「慶央って、それ、どこです?」
「峰さん、もしかして、あたしたちを見捨てるつもりかい?」
「峰さん、どこにも行かないくださいよ!」
しかし、突然に閃いたことであるのに、一度口に出した峰貴文の慶央行きの決心は固い。
「少々もてはやされて、天狗になっていたかもね……。
慶央で、あたし、戯作者として役者として一から出直すことにしたわ」
半裸の女たちはずるずると這って、貴文のあでやかな女物の着物の裾をそれぞれに掴んだ。
「そんなこと、勝手に決めないでください」
「峰さんがいなくなったら、あたしたち、どうなるんです?」
「心配しなくても、大丈夫。
この芝居小屋も衣装も小道具も、すべてこのままにして置いていくわ。
今まであたしが書いた芝居も好きなように変えて、好きなように上演すればいい。
しばらくはそれでやっていけるはず。
もちろん、あたしとともに慶央について来たければ、それもよし。
ただし、その日暮らしの大道芸人だけどね。
衣装無しに宿無し、そして時に食うものも無し。
あるのは、役者としてお客を喜ばせたいという想いだけ。
面白いなじゃないの、ぞくぞくしてくるわ」
着物の裾を掴んでいる女たちの手を、貴文は邪険に払った。そして軽業師も顔負けの身のこなしで、今まで書き物をしていた文机の上に飛び乗り、ゆっくりと仲間の一人一人の顔を睨む。
舞台では見慣れているはずの、貴文の妖艶な流し目だった。しかし、その視線に込められた迫力に、貴文を取り囲んでいたものたちの背筋は凍りつき言葉を失う。
最初に言葉を発したのは、用心棒の蘇悦だ。
「おれは、峰さんの行くところならどこまでもついて行く。
たとえ、そこが地獄でもおれにためらいはない。
峰さん、慶央でもおれの刀の腕を頼ってくれ」
「その言葉、ありがとうね、蘇悦ちゃん」
「おれだって、峰さんと芝居が続けられるのだったら、道端で寝る覚悟だってある」
「あたしも、峰さんと別れるなら、死んだ方がまし」
しかし蘇悦に続いて声を上げたのは数人だった。
安陽と慶央ではあまりにも離れすぎている。浮草家業の役者とはいえ、安陽暮らしが長ければ、皆それぞれに簡単には捨てられないものを抱えている。
それは、部屋の隅にうずくまっていた峰新も同じだ。
あの白い髪の女が慶央に帰るというのだったら、萬姜も嬉児もついて行くことは間違いないだろう。
峰貴文と離れることも考えられないが、嬉児ともまた別れたくない。
しかし彼には、血は繋がっていないものの、面倒をみなければならない弟や妹が五人もいる。まだ幼い彼らを安陽に残していくことは、死よりも過酷な未来に放り込むということだ。
だからと言って彼らを連れて行くとして、道中の飲食と宿泊はどうする?
もし無事に慶央についたとしても、大道芸人として得るわずかな投げ銭だけで生きていけるのか?
「おれだって……、慶央に……」
もぞもぞと呟いてみたものの、あとに続く言葉は峰新の口からは出て来なかった。
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