274 再び、慶央へ……・その4



「荘興さまと共に、わたくしも慶央に戻りたく思います」


 平伏した後に顔を上げた允陶がそう言った時、英卓は驚かなかった。


 薄い髭をしょぼしょぼと生やした見かけは冴えぬ男だが、荘家の生き字引と言われ、一を聞いて十を知る賢い男だ。

 そして慶央では、荘興の傍に常にはべっていた。


 英卓のように医師の永但州を問い詰めなくても、数年ぶりに見た痩せた荘興の姿に、その体に起きている異変に気づいたに違いない。余命まで、読めたかどうかはわからないが……。


 言葉数少なく自分の考えは問われるまで口にすることがない允陶が、珍しく言いつのった。


「わたくしが去った後のことは、千夏さまにお任せなさるとよいでしょう。

 承家から千夏さまとともに参られた皆さまは、どなたも才が溢れ気配りの出来る素晴らしい方々にございます。

 英卓さまと千夏さまの手足となって、これからの荘新家を盛り立てていくことは間違いございません」


 多くの婚礼道具と、かしましい三人の侍女を筆頭に多くの使用人も引き連れて、千夏は英卓の元へ輿入れしてきた。

 いずれ皇帝の義理の伯父という立場で、英卓は否が応でも宮中に頻繁に出入りすることになるだろう。断り切れず、官位などというものも戴くことになるに違いない。


 そのような変化の中で、慶央から来た自分など必要とされなくなると、允陶は暗に言っている。そこまで先を読んで覚悟しているこの律儀な男を引き止めるすべを、まだ若い英卓は持たなかった。


「父上のこと、よろしく頼む」


 荘興の病のことは本人が誰にも知られたくないと思っている以上、口に出すことは出来ない。


「はい、仰せの通りに」


 允陶らしく、委細承知とばかりの短い返事だ。

 その慇懃いんぎんぶりに、ふと、「麗のことも頼む」と英卓は言い足したくなった。

 しかしながら「允陶よ、おまえの白麗への秘めた想いは知っている」と、いまさら仄めかしたところでどうなるものでもない。

 自分の胸に空いた風穴が大きくなるだけだ。


――いろいろあったが、結局は父上でもなくおれでもなく、最後まで麗を守るのはこの男の無欲だったとは――


 拱手したままするすると後退って部屋を出て行く允陶を見送りながら、英卓は思った。





******


 芝居小屋の狭い楽屋で、足のがたついた文机の前に座っていた戯作者・峰貴文が、突然、持っていた筆を投げ出して叫んだ。


「ああ、いやになっちゃう。

 あたし、金輪際、宮中ものは書きたくないわ」


 次の出番に備えて化粧をしていた役者の一人が振り返り、貴文の愚痴をなだめた。


「峰さん、そんなこと言わないでくださいよ。

 後宮を舞台にした復讐劇、あれ、大当たりしたじゃありませんか。

 謎めいた黒衣の宮女なんて、峰さんでなくては、とうてい書けるもんじゃない。

 お客さんも演じるおれたちも、続編が書き上がるのを楽しみにしてます」


「だって、書いていると、嫌なことばかり思い出しちゃう。

 ……、……。亜月ちゃん、元気かしら?

 そうだわ、あたし、決めたわ!」


 今度は他のものたちもいっせいに振り返って、化粧刷毛を手にしたまま口々に訊く。


「峰さん、その、『あ』なんとやらって、誰のことです?」

「峰さん、何を決めたんです?」


 垂らした美しい黒髪をはらりと払って、峰貴文は立ち上がった。

 そして、再び叫んだ。

「あたし、荘興ちゃんや白麗ちゃんと一緒に、慶央に行ことにしたわ!」







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