272 再び、慶央へ……・その2
離れようとする男の背中に手を絡めて、女は引き止めようとした。
英卓と千夏が夫婦となって、はや三か月。
安陽の短い夏が過ぎ去ろうとしている。女の指が、男の背中に浮いた汗を冷たく感じたのも気のせいではない。
「重くはないか?」
暗闇の中で男はかすかに笑い、そして問う。
女が顔を横に振ると、片腕で支えていた男の体が崩れ落ち、女の体を押しつぶした。
男の体の重さに二つの乳房が潰れ、胸の骨が軋む。
すぐさま気遣った男の体がくるりと反転し、千夏の頭は広く逞しいその胸の中に抱きとられた。
――驚きが、痛みが、喜びになるとは。
なんとまあ、女の体は不思議に満ちていること――
そう言いたかったが、さきほどまでの乱れた行為のあとでは言葉は不要だ。
彼女の一度目の夫は、親子というよりも祖父と孫ほどに歳の差があった。
壊れものを扱うように優しかったが、いま思えば、あの寝所で行われたことは男と女の営みではない。老いた男は、花を愛でるように彼女を愛でて、仔犬を撫でるように彼女の体を撫でまわしただけだ。
二度目の夫は彼女を数度抱いただけで、「面白味のない女だ」と言い放ち、馴染みの遊び女の待つところに戻った。
男の欲望に女の体が喜びをもって応えるとは、二度も夫を持った身でありながら知らなかった。
――毎夜毎夜、きっと、兄上さまは大変な思いをされているに違いない――
同じ屋敷内に四人の妻を囲う兄の承宇項の苦労を思う。
笑いたいところだが、この愛おしくてたまらない男も、またそのうちに自分以外の妻を持つのかと思うと笑えない。
その前に一日でも早く、子どもが欲しいと切に願う。
「千夏……」
「はい?」
胸に顔を埋めた千夏の髪を撫でる、男の大きな手の動きが止まった。
――もしや、もう一度と言われるのだろうか。
でも、お若いといっても、明日のお仕事にお差支えが起きては……――
「麗のことだが」
「えっ?」
「父上とともに慶央に帰そうと思う」
暗闇の中で、妄想を恥じた千夏の顔は初めは赤くなり、そして英卓の言葉を理解すると青くなった。
夜具を引き寄せて裸身を隠し、半身を起こす。
「白麗お嬢さまへのわたくしの姉としての心配りに手落ちがあるのでしたら、おっしゃってくださいませ。
お嬢さまの嫁ぎ先には、必ずや、誰もが羨む名家をお探しいたします」
話せないという障害のために白麗の後宮入りはなくなったらしいという噂が広まると、白麗の縁談が降る星のごとく舞い込むようになった。
美しい少女を得られるだけではない。
白麗を妻に迎えれば、将来、皇帝の外戚にその名を連ねられるのだ。
承将軍までが、「おれの五番目の妻にしてもよいのだが」と、冗談とも思えぬ口調で言ってくる始末。
「いや、千夏、勘違いをするな。
父上や麗のことを含め、おまえは家のことをよくやってくれている。
ありがたく思っている」
英卓もまた半身を起こすと、千夏に向き合った。
「千夏、おまえは気づいていないだろうが、父上はご病気だ。
先日、父上と永先生の話を立ち聞きしてしまった。
それで今日、渋る永先生を問い詰めた」
「それで、永先生はなんとおっしゃられたのですか?」
「父上は、長く持って余命は一年という不治の病を患っておられるそうだ。
それを聞いて、兄上へのあまりにも早い家督相続と、おれの婚姻に物見遊山を兼ねての上洛を思いつかれた訳が、腑に落ちた」
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