270 荘英卓の決断・その12
「そうと決まれば、なるべくはやく麗を喜ばせたい。
おれの婚姻の前に……。
いや、父上たちの一行が安陽に着く前に済ませなければならない。
ふさぎ込んだ麗の姿を、父上にお見せしたくないからな」
「そういうことであれば。
梨佳さまのご都合を無理にでもつけていただいて、明日にでも」
允陶はそう言ったあと、「委細、わかったな」と言いながら萬姜を見やった。
萬姜はこくりと頷く。
しかし頷いたものの、白麗が英卓に施した怪我の治療法から、なぜに突然、菓子の話になったのか彼女には理解できない。
狐につままれた心地だ。
それでも、拷問を仄めかされて脅されてしかたなく始めた話は、これで終わったのだとほっとする。
允陶が平伏して言った。
「ではさっそく梨佳さまに使いを出す手配をいたしますれば、これにて、わたしは失礼いたします」
しかし立ち上がろうとした彼を、英卓が止めた。
「先ほどの萬姜の話によると、麗が髪を切ったのは、屋敷から出るためだそうだな」
浮きかけた腰を下ろして允陶が答える。
「さようだとわたくしも思います。
しかしながら、『蟻一匹、逃してはならぬ』と、門番に固く言っておれば、今回はその心配は無用でございましょう」
「その素早い気配り、さすがだ、允陶。
だが、明日、おれと梨佳が作った菓子を食えば麗の機嫌も直り、その心配も無用となる」
允陶も萬姜と同じく、英卓が菓子にこだわる理由はわからない。
しかし、萬姜と違って目を見開くこともなく、声の色を変えることもない。
主人を問いただすことは彼の仕事ではないからだ。
英卓の言葉が続く。
「それともう一つ、麗の髪の毛が短くなった姿には父上も驚かれるであろうが、それは慶央でもあったこと。
父上も察してくださるに違いない」
はっとなった允陶は思わず顔を上げた。
そして年若い主人の顔を見つめる。
――先ほどまで、顔もその声も、慶央名物の初冬の嵐のごとく荒れて、雷がどこに落ちても不思議ではなかったが。
いまは晴れ晴れと雲間より神々しい陽の光が射し、その明るさで周囲を照らしている。
なんとまあ、変わり身の見事なお人だ――
「話は終わった。
允陶、持ち場に戻れ。あとは任せる」
「はっ!」
再び立ち上がろうとして、珍しく允陶の足がもつれた。
――男として人として、自分はこの方の足元にも及ばない――
部屋を出て行く允陶の背中を見送ると、英卓もまた立ちあがった。
そして、すたすたと軽い足取りで萬姜のすぐ傍らに来ると、片膝を立てて座る。
二人の目線の高さが重なる。
驚いてかしこまる女の顔を覗き込んで、彼は言った。
「萬姜。嫌な思いをさせてしまったな。
いくらおれに脅されたからといって、忠義もののおまえが父上や永先生の言いつけに背くのは、身を切られるよりも辛かったことだろう。
ほんとうにすまないことをした。許してくれ」
「な、な、なんと……。
英卓さまがこのわたくしに謝るなどと。
そ、そ、そのようなことを、なさってはなりません」
「萬姜、これからおれの言うことをよく聞け。
今日、ここで喋ったことはすべて忘れろ。
もし、父上や永先生に漏れ伝わることがあっても、その科はすべておれが引き受ける。
おまえはなにも案ずることはない」
「あ、あ、ありがたいお言葉にございます」
「おまえはいつまでも、麗の頼もしい雌鶏でいて欲しい」
そう囁くように言い、そして再び立ち上がった若い男は、今度はよい声を響かせて言った。
「永先生の薬で眠っている麗も、そろそろ目覚める時刻だな。
坊主頭になって半べそかいているあれを、二人で慰めてやろう」
≪荘英卓の決断≫、終わりました。
次回より、最終章最終小見出しとなり、この長い物語りも完結します。
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