268 荘英卓の決断・その10



 允陶にいさめられたくらいでは、長年心の奥底に溜まっていた萬姜の怒りは収まらない。詰め寄ることは諦めても、心ここあらずという男の横顔に思わず声を荒げた。


「英卓さま!

 わたくしの言葉はお耳に入っておりますでしょうか」


 その声に、鼻梁高く顎から耳にかけて鋭くも美しい線を見せている男の横顔が、ゆっくりとこちらを向く。


 銀山で火矢を受けて、英卓は顔の左半分に火傷を負った。

 傷跡はかなり薄くはなっているが、目立たぬようにと前髪を垂らしている。

 その髪に半分隠れた男の瞳の色は透き通るように茶色く輝いていた。

 その瞳に見つめられて、萬姜は続けて言おうとした言葉を失う。


――英卓さまとお嬢さまは、よく似ていらっしゃる。

 実の兄妹ではないのに――


 英卓の顔と声から、すでに苛立ちは消えていた。


「瀕死だったおれに、麗がどのような治療を施したか、よくわかった。

 ではもう一つ、允陶と萬姜に訊きたいことがある。

 父上と永先生は、なぜにおまえたちにこのことについて他者に話すことを厳しく禁じたのだ?

 治療を施されたこのおれにまでも」


「そのことについては、このわたしからお話いたします」


 萬姜を諫めた手をさりげなく自分の膝の上に戻し揃えると、允陶が口を開いた。

 あの日に起こったことは、萬姜が洗いざらい話してしまった。

 もう隠す理由はない。

 荘家の屋敷のすべてを差配する身でありながら、女の背中に隠れて知らぬふりを通すことは、彼の家令としての矜持が許さない。


「それは、白麗お嬢さまの血に死人さえ生き返らせると思えるほどの、不思議な力があったからでございます。

 それが世間に知れ渡れば、白麗お嬢さまの身にどのような危険が迫るか、永先生はなによりもそのことを心配なさっておられました。

 『聖人君子と言われても、いざとなれば、誰しも自分の命が惜しいものだ。どのようにしても生きたいと願う。人とはそういう生き物だ』とは、永先生のお言葉です」


「永先生がそのように言ったのか」


「さようにございます。

 飄々ひょうひょうとして人を煙に巻くことばかり言われますが、たくさんの人の生き死にをまじかに見て来た名医の永先生だからこそのお言葉と、あの時は感じ入ったものでございます」


「永先生が名医と言われてもな。

 範連には学べ学べと口煩く言いながら、この安陽に来てより、ご自分は遊び惚けてばかりではないか。

 先日も、先生がやけに嬉しそうな顔をしておられたので、『永先生、おれの婚姻をそれほどに喜んでくださって、ありがとうございます』と、言ったらな。

『いや、違う。おまえの婚姻が終わり次第、荘興とどこへ物見遊山に行こうかと、そのことで頭がいっぱいだ』と言ったぞ」


「荘興さまと永先生の前では、若宗主はいつまでも子どもでいらっしゃると、お見受けしました」


 誰の前でも常に慇懃無礼な態度を崩さない允陶が、かすかに口角をあげて薄く笑う。英卓もまた面白くもないことを聞いたとばかりにふんと鼻で笑って、允陶の言葉をあしらった。


「そうでございました。

 いま、荘興さまのお名前があがったことで、思い出しました」


「なんだ?

 遠慮なく言ってみろ」


「当時、荘興さまは白麗さまを娶られるおつもりであられました。

 白麗さまが英卓さまに施した口移しの治療法が、噂になるのを嫌われたかと」


「親父め。自分の歳を考えろ。

 麗との歳の差は、親子どころかじじいと孫ほどにも違うだろうに」





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