267 荘英卓の決断・その9
「めそめそと泣きおって。
おのれの語りに酔ったか、萬姜?」
話が中断されたことに苛立った英卓が目を見開き、萬姜を睨んだ。
しかし荘家と白麗に仕えた歳月は、萬姜を
英卓の少々の毒舌や見下した視線ぐらいでは
覚悟が出来れば、彼女も口では負けてはいない。
「いいえ、これは嬉し涙でございます。
お元気な英卓さまを目の前に見ることの出来るいまの幸せを思いますと、涙が溢れました」
そう言うと、彼女は聞えよがしにずずぅっと音を立てて鼻水を啜りあげた。
女の向こう意気に、かしこまっていた允陶の肩がかすかに揺れる。
「わかった、わかった、おれは見ての通りに元気であるから、安心しろ。
で、話を続けてもらえるかな、萬姜?」
長年抱いていた謎がこの瞬間に解けることを知った英卓は、もう目は瞑らない。
「はい、英卓さま。お話を続けさせていただきます。
お嬢さまの顔色が悪いことを、わたくしは永先生に申し上げました。
それで、永先生は嫌がるお嬢さまのお口を無理やり開けさせて、その中をご覧になられました……。
……、……。
お嬢さまのお口の中は、たくさんの噛み傷で、それはそれは見るのも無残な有り様だったのでございます」
萬姜の声に再び涙が混じったが、彼女はそれをぐっと飲み込んだ。
ここまで言ってしまえば、肝が据わった。この四年半の歳月の中で、英卓にとっては知りたくてたまらなかったことだろうが、彼女にも言いたくてたまらなかったことがある。
「お嬢さまが口移しで薬湯を飲ませる時に、ご自分の血も英卓さまに分け与えておられたことを、この時に、わたくしどもは初めて知ったのでございます。
『これ以上、お嬢ちゃんに治療を続けさせては、今度はお嬢ちゃんの命に関わる』と、永先生と荘興さまが話し合っておられたご様子にございます。
しかし、お嬢さまのご意思がお固くあられて、英卓さまの治療は続けられました」
「おれが眠り続けている間に、そのようなことがあったのか」
「はい、さようにございます。
そして、大怪我を負った英卓さまが銀山より慶央のお屋敷に戻られて、十日目の朝、英卓さまはお目覚めになられました。生死の境をさまよわれたのが嘘のように、たいそうご気分のよいお目覚めのご様子でございました。
しかしながら、英卓さまに分け与えられたことで血が薄くなってしまったお嬢さまは、この時はもう歩くこともできないほどに体が弱られてしまいました。
その後のことは英卓さまもよくご存じのことと思います。
お嬢さまは元のお元気な体に戻るのに一年もかかりました」
思い出すほどに、怒りが込み上げてくる。
我を忘れて、萬姜は英卓に向かって膝を進めた。
「それを、それを、英卓さまは……。
湯治場でお嬢さまのことを、こともあろうか『わんこ』と犬呼ばわりされて、さんざんにからかわれました。
あの時のわたくしの無念さ。
英卓さまにはご理解いただけるでしょうか?」
前に座っていた允陶が後ろに手を伸ばしてきて、落ち着けというように萬姜の膝を押さえた。冷静になった萬姜が英卓を見やると、彼女を睨んでいたはずの彼の視線は、いつのまにか外れて開け放した窓の外を眺めている。
萬姜の言葉を、彼の耳はいつから聞いていなかったのか。
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