266 荘英卓の決断・その8



 やっと覚悟を決めて話し始めた萬姜を、英卓はひたと見つめた。


 しかし萬姜の話が佳境に入ってくると、彼は目を閉じた。

 目を閉じれば、うつつ黄泉よみの世界の境でさまよっていたあの時を思い出せるかのように。


 彼の目の形は、青陵国人には珍しい切れ長でくっきりとした二重だ。


 色白く鼻梁の高い中華大陸西域の国の人であった母親の血が濃い。

 だがその形のよい瞼を閉じても、彼に思い出せるものは何もない。

 あの時に、彼のすぐ隣にいた無慈悲な死神の姿も、不安げに彼を取り巻いていた荘家の人々の顔も、すべては暗闇の中だ。


「英卓さまの心の臓の音を聴いた後、お嬢さまは薬湯を口に含まれて……。

 口移しに、英卓さまに飲ませようとされました。


 その時もやはり、『そのようなことをしても、無駄だ。英卓の命は、もはや諦めるしかない』と永先生は仰られました。


 しかししばらくすると、英卓さまの喉仏が大きく動いて、薬湯を飲まれたのが見ているわたくしたちにもわかったのです。


 そしてなんとその時、死人のように横たわったままだった英卓さまのお体がぴくりと動き、突然右手が上がったかと思うと、英卓さまのお顔に覆いかぶさっていたお嬢さまの頭を……。

 いいえ、お嬢さまの白い御髪を摑まれました。


 秋に自ら短く切られたお嬢さまの御髪は、その頃も首筋にかかるほどの短さだったのですが、その短い御髪を英卓さまの手がしっかりと掴まれたのです。


 そのありさまは、まるで英卓さまがお嬢さまの導きに従ってこちらの世界に戻ってくるというご意思を表されたようで、見守っていたわたくしたちは驚くとともに、思わず喜びの声を上げたものでございます。


 そのようにしてお嬢さまは英卓さまに薬湯を差し上げ続けて、ついに椀が空になりました。

 そしてその後、お嬢さまはご自分の腕を短刀で切られて、水を張った盥の中に血を滴らせ、その血水で湿らせた布で英卓さまの傷口を拭き清められました」


 英卓は目を瞑ったまま、萬姜の話を聞いていた。


 その時のことはまったく覚えていないが、萬姜の語る真に迫る光景は、まるで体から抜け出た魂がその場を見ているように、ありありと瞼の奥に浮かぶ。


 何年も昔のことでありながら、萬姜がこれほど鮮明に憶えているということは、彼女もまた何度も思い出しては自問自答していたのだろう。

 目の前で見た光景は、奇跡でなければなんであったのだろうかと。


――麗の血の混じった水で、傷を清めた?

 麗の血がおれの体の中に入ったのは、その時か――


 英卓は声に出すことなく独り言ちた。

 しかし、萬姜の話は続く。


「朝と夕の二度、お嬢さまはそのような治療を英卓さまに施されました。

 意識はお戻りならなくても傷口が膿むことなくふさがり、英卓さまの顔色がよくなっていかれるのが、傍目にもわかったものです。


 しかしながら、お嬢さまが英卓さまの治療を始めて、あれはすでに七日も過ぎたころのことでございましょうか。


 お嬢さまがお食事を召し上がらなくなり、ひどくお疲れのご様子であることに、わたくしはやっと気づいたのです。

 もともと肌の色の白いお嬢さまでありますが、それがいつのまにか透き通るかと思われるほどに青白くなられて、昼間を寝台に横たわって過ごされるようになっておられました。


 この命はお嬢さまに捧げたものと思い、お嬢さまに尽くす覚悟でございましたのに、そのようになられるまでお嬢さまの変化に気づかなかったとは……。


 言い訳にしかなりませんが、あの時は、わたくしの目も荘家の皆さまの目も、回復される英卓さまのご様子にだけに向いていたのです」


 溢れる涙を拭くために、萬姜は言葉を切った。

 着物の袖口で、彼女は目を押さえる。





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