260 荘英卓の決断・その2
その朝、水を張った
母親より一足早く部屋に入った嬉児の賑やかなお喋りによって、すでに女主人は目覚めているはずだった。
人の言葉を解することが難しい女主人ではあるが、仲の良い嬉児のお喋りを聞くのは大好きだ。少々わがままで寝起きの悪いところがあるが、徐々に目覚めた白麗お嬢さまは朝の身支度を待っているに違いない。
白麗の部屋へと続く中庭を見渡す渡り廊下沿いには、夏の間の日除けのために、
季節は初夏を迎えていた。
冬の間は見るも寂しい枯れ木だった
葉の中から顔を覗かせた純白の花が朝日を浴びて満開だ。
――白麗お嬢さまの美しさを、皆は、春に咲く大輪の
お嬢さまの天涯孤独な身の上と言葉を話せない哀れさ、それでありながら人の困惑を顧みない無邪気さを知っているわたしには、
足を止めることもなく、萬姜はそんなことを考えた。
あと数日すれば、荘興さまたちが安陽に入られる。
二年半ぶりお会いする荘興さまだ。
お目にかかったらまずは、梨佳さまが生まれた桃秀のお話をせねば。
いや、それよりも先に、英卓さまと千夏さまのめでたい婚姻のお祝いを申し上げなくては。
いや、荘興さまは何よりも白麗お嬢さまとの再会を楽しみにされているはず。この二年半のお嬢さまのご様子をいろいろとお聞かせして差し上げよう。
春仙さまの紅天楼で斬られた傷は完治されて、お元気なのかしら……。
――ああそうだったわ、手落ちはないと思うけれど。
もう一度、荘興さまと春仙さまのために用意したお部屋を見て、足りないものがないか調べましょう――。
中庭の真ん中には小さな橋がかかった池があった。
朝日のぬくもりを求めて、水面に浮かび上がっていた赤い魚が、萬姜の気配に驚いて飛び跳ねた。ぽちゃりとそれは耳に届くか届かぬかのかすかな水音だったが、静まり返っている中庭に響いた。
池の横に据えた庭石の上には、白麗を喜ばせるための小鳥の餌台も置かれている。
いまの時刻だと餌の取り合いをする小鳥たちの囀りで賑やかだ。
しかし今朝に限って一羽の小鳥の影もない。
――おかしい。
あまりにも静かすぎる――
萬姜は白麗の部屋の扉の前で立ち止まった。
かたく合わさった扉が、萬姜を拒絶していた。
部屋の中からは嬉児の甲高いお喋りの声も白麗の楽しそうな笑い声も聞こえてこない。時々、二人は部屋の中に潜んで、入って来た萬姜を驚かせるという遊びをする。そう言う時でも嬉児と白麗の押し殺したくすくす笑いは、部屋の外まで伝わって来た。
萬姜は振り返ると、後ろに立つ下女に言った。
「
これからお嬢さまの部屋に入りますが、部屋の中で何を見ようとも、決して驚いた声を上げてはなりません。
そして、允陶さまのところへ急ぎ行って、おまえが見たことのすべてをご報告申し上げるのです。
決して騒がぬよう、そして途中で、誰に会おうと口外してはなりません」
青ざめた下女が頷いたのを確かめて、萬姜は再び扉に向かい呟く。
「わたしの心配が杞憂に終わればよいのですが……」
しかし白麗とともに何度も命の危険を経験してきた萬姜には、部屋の中でただならぬことが起きている確信があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます