261 荘英卓の決断・その3



 女主人の部屋の扉に向かい合うと、一度、萬姜は固く目を閉じた。

 そして再び目を開けて、両開き扉の取っ手に手をかける。

 指先はかすかに震えていたが、覚悟の定まった声は震えてはいない。


「お嬢さま、おはようございます。

 萬姜でございます。

 お目覚めになられましたか?」


 そう言いながら、中からの返事を待たずに扉を開けた。





 部屋の中は、可愛らしい白麗にふさわしい心華やぐ設えだ。

 赤い塗りに豪奢な螺鈿細工らでんざいくを散りばめた家具調度品が、部屋のあちこちに置かれている。慶央にいた時に、少女の保護者だった荘興が、金を惜しむことなく彼女のために集め揃えたものだ。


 そしていまはその家具調度品を、正妃さまからの下されものや千夏さまの見立てた置物が飾り立てている。見たことはないが、後宮に住まわれている幼い公主さまたちの部屋に勝るとも劣らないのではないかと、萬姜はひそかに思う。


 隅々まで掃除の行き届いた美しい部屋に、彼女の背中越しにまっすぐに差し込む初夏の朝日は、まばゆいばかりに透明だ。


 いつもの萬姜であればそれでも、飾り棚の上に置かれた植木鉢の土の乾き、卓の脚に隠れた小さな埃に目を走らせるところだが、彼女はまっすぐに部屋の奥へと進んだ。




 部屋の真ん中で、嬉児が背中を見せて座り込んでいた。

 驚いて腰を抜かしたというふうにへたり込んでいる。


 瞬きを忘れた目で嬉児は部屋の奥に据えられている白麗の寝台を見つめていたが、母親の気配を感じて振り返った。

 震える手で、それでもしっかりと嬉児は寝台を指さしていた。


 寝台もまた、螺鈿細工のある赤い塗りの組木で瀟洒に造られていた。

 

 白い紗織りの薄絹のとばり越しに、寝台の上に座って動かぬ白い寝衣の姿がおぼろながら透けて見える。

 こちらも嬉児と同じく背中を見せていたが、嬉児のようにへたり込んでいるのではない。寝台の上に、背筋を伸ばして正座している。


 嬉児の驚きも萬姜が扉の開けた気配も伝わっているはずだが、それでもまっすぐに前を見据えているらしいその背中は微動だにしない。

 いったい嬉児は何を見て、驚いたのだろうか。


 ――お嬢さま、命に代えてもお嬢さまをお守りすると、わたしは鬼子母神さまに誓っております。

 大丈夫でございますよ。

 このわたしがお嬢さまの身に起きた災厄をすべて引き受けます――


 母の姿を見て嬉児が上げていた手を下し、何ごとかを言おうとして口を開いた。

 静かにするのですよ――と自分の唇に指を添えて萬姜が促すと、嬉児は気丈夫にも頷いた。


 それを確かめて、萬姜は後ろに立つ下女に振り返って、こちらにも騒がぬようにと視線だけで確かめる。

 青ざめながらも下女もまた頷いた。


「お嬢さま、お目覚めでございますか。

 今日も、気持ちのよい朝にございますよ」


 そう言いながら、萬姜は重なり合ったとばりに手をかけると左右に開いた。





 萬姜の声掛けにも気づかぬ様子で、美しい女主人は寝台の上に座っていた。


 まっすぐに前を向き何もない宙を見つめている白い横顔は、額から垂れた短い白い髪に隠れている。

 短い髪がいつもは見えている可愛らしい形の耳を隠し、その先は頬にかかっている。不揃いに切られた髪の毛の下で細く白いうなじも丸見えで、それがいっそう思いつめているらしい少女の姿を儚げに見せていた。


 白麗の真白く美しい髪が肩にも届かぬほどに短くなっていることに、萬姜はやっと気づいた。


――えっ、お嬢さまの御髪が短い?……、

 なぜ、そのようなことが……、――








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