258 承宇項の謀り事・その10



 ――それにしても、オシドリだなんて――


 仲睦まじく並んでいる二羽の水鳥に、英卓と自分をなぞらえたわけではない。

 天子さまと正妃さまがいつまでも仲睦まじくあられるようにと願い込めて、慣れぬ手つきで一針一針心を込めて刺した。


 当然のことながら、出来上がれば正妃さまに差し上げるつもりでいた。

 しかし、出来上がりは自分でもわかる下手さ加減だ。


 姉でもある優しい正妃さまは必ずや不器用な妹の頑張りを褒めて、そしてきっと身近に置いて使ってくださることだろう。

 しかし、刺繍の不揃いな針目を、宮女や宦官たちが陰で笑うのが目に見えていた。


 それで手元に残した。

 手巾は箪笥の引き出しの奥に仕舞い込むことも出来たはずだ。

 だのに、こうして一日に何度も眺めてしまい、千夏のため息の元となっているのだ。


 兄の宇項から英卓との婚姻の話を聞かされた時、千夏は思わず叫んだ。


「英卓さまを、わたしは弟のように大切なお方と思いお慕いしているだけです。

 白麗お嬢さまを可愛い妹と思っているのと同じです。

 わたしは三度目の婚姻を望んでいません。

 あまりにもみっともないことです。

 何よりも、わたしは英卓さまより五つは年上……」


 しかし、自分のうろたえぶりを鼻で笑った兄を見て、言葉とは裏腹に年下の男への自分の想いは、色に出ているのだと千夏は知った。

 最近ではすっぱな女を演じて、英卓に高飛車に接していたというのに。


「千夏、勘違いをするな。

 この婚姻はおまえの想いを叶えるためのものではない。

 これからの朝廷と青陵国を支える承家にとって、英卓は必要な男だ。


 しかしながら、あいつはまだ自分の値打ちが自分でわかっていない。

 まあ、若いからしかたのないことではあるが。

 妓楼に通いつめて、胸の大きい遊女に入れあげるのはまだよいとして……」


「まあ、兄上さま。

 そのようなことをここでおっしゃらなくても」


「話は最後まで聞け。

 胸の大きい遊女などどうとでもなるとしても、妹の白麗のためとなれば、あれはなにかも打っちゃって安陽を出ていくことすらするだろう。


 それを止めるためには、英卓には足枷あしかせが必要だ。


 英卓の妻になれと、おまえに言っているのではない。

 英卓を安陽に留め、自分の為すべきことを自覚させるための足枷あしかせになれと言っている。

 英卓とおまえは、この婚姻から逃れることは出来ない」


 兄の言葉に、自分の秘めた想いが一人の男の自由を奪ったのだと、千夏は知った。

 そしてまた、これまでに起きた様々な出来事が彼女の胸を去来した時、この婚姻は二人が出会う前から決まっていた天命なのだとも悟った。




 庭に出ていた侍女の一人が部屋の中に飛び込んできた。

 途切れぬ女主人のため息にいたたまれず、侍女たちは外に出て英卓の訪れを今か今かと見張っていたのだ。


「千夏さま、英卓さまでございますよ。

 こちらに向かって来られる、その足取りは軽やかでございます」


 その言葉に、千夏はおもむろに立ち上がった。


 英卓を迎えたら、彼を夫にする喜びの言葉のあれを言おう、これを言おうと思う。

 いや、開口一番に「わたしのような年上の女が……」と謙遜すべきなのか。


 口達者な彼女が、生まれて初めて口にするべき言葉に迷った。

 早鐘のように打つ胸が苦しい。


 机の上に広げていた手巾を見下ろす。

 くしゃくしゃになった白い布上で刺繍糸が毛羽立ったオシドリが二匹、仲良く泳いでいる。


 男の顔を見たら、何かを言う前に泣いてしまいそうだ。







   ――「承宇項の謀り事」、終わりました――

 


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