257 承宇項の謀り事・その9



 承宇項は言葉を続けた。


「英卓と千夏の新しい門出を祝って、妻たちがささやかな酒席を用意している。

 関景さん、祝いの酒を酌み交わしながら、皆で英卓と千夏を待つことにしよう」


 その言葉に満面の笑みを浮かべた関景が答える。


「それはなんと申し訳ない。

 それにしても、今日の酒の美味さは格別となりましょうぞ」


「千夏の嫁入りが決まるというので、妻たちが張り切っている。

 今日は少々煩く喋るだろうが、大目に見てやってくれ。

 目の上の瘤だった千夏が屋敷からいなくなる喜びと、千夏の婿となる英卓がよい顔立ちをした若者ということで、多少のやっかみもあるのだろう」


「そこがおなごの可愛いところでもありましょう」


 関景の言葉に宇項も笑って答える。

「これから英卓もいやというほど味わうに違いない」


 それで今日の承宇項の妻たちは着飾って、部屋を追い出されるまで姦しく喋っていたのか。あれは土産を喜んだだけではなかったということか。


 承宇項と関景の男の世間話を聞き流しながら、拱手したまま英卓は部屋の出口まで後退った。

 その英卓を承将軍が呼び止めた。


「そうだった、英卓。

 おまえに言い忘れていたことがあった」


 どうでもよいことをふと思い出したという口ぶりだ。


「今夜、堂鉄や徐平と胡玉楼に繰り出しても、残念ながら青愁はいないぞ。

 青愁は十分な金子を懐に、先日、故郷に帰った。

 金子を元手に商売を始めるか、それともあれほどの才覚と器量と……。

 男が顔を埋めたくなる胸の大きさだ」


 そしてちらりと承将軍は関景を見やる。

 同じ言葉を、確か年越しの夜に英卓は関景から聞かされた。

 今日のことは、年越しの夜より前に、狡猾な二人によって用意周到に始まっていたということだ。


「金持ちの男に囲われれば、何不自由ない暮らしが待っているだろう。

 おまえが、青愁の行く末を案じる必要はない」


 そして早く行けと言わんばかりに、宇項は手を振った。





******


 先ほどから、千夏は握りしめた手巾を手の中でもてあそんでいた。


 仲睦まじく並んで泳ぐ雌雄のオシドリの刺繍がある手巾だ。

 しかしそれは引っ張られ捩じられ丸められて、くしゃくしゃだ。

 我に返ってそのことに気づいた彼女は、あわてて手巾を机の上に広げ皺を伸ばす。


――よりにもよって、オシドリの刺繡だなんて。

 わたしって、なんてお馬鹿さんなのでしょう――


 口達者なのには自信がある。

 誰かに言い負かされた悔しい思い出などない。

 しかし、手先のほうはまったく不器用だった。

 おしとやかに座って針を動かすなどという柄には生まれつかなかった。


 兄の宇項から英卓との結婚話を進めると言い渡された日から、何かを手に取ると落とす。いったいどう歩いたらそこにぶつかるのかと、侍女たちに呆れられてしまうほど、ぼんやりしている。


「千夏さま、考え事をされるのでしたら、座っていてください。

 うろうろされては、わたしたちの仕事が増えるだけです」


 とうとう三人の侍女たちに口々に叱られた。

 しかし座っていると、ますます英卓との結婚のことを考えてしまう。

 今度はため息ばかりついていると、また侍女たちが言った。


「刺繍をなされば、きっと、心が落ち着きます。

 こういう時は、無心になって手を動かすのが一番です」

 







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