246 雪降り積もる年越しの夜・その5


 小柄な若い女だ。

 立ち上がるとすぐに着物のたもとで顔を覆ったので、泣いていたとわかった。


「まあ、希禾さん。

 このような真夜中に、そのようなところで……。

 どうされたのです?」


 それはこの夏に沈家に嫁してきた、如賢の長兄の三番目の妻だ。

 十六歳になっているのか、いないのか。

 見かけも若いが、その心もまだ幼い。


 沈家では女同士がいがみ合うことは固く禁じられているので、他の妻たちに苛められたというのでもないだろうと、梨佳は思った。


 希禾は顔を覆っていた袂をおろした。

 ゆで卵のように照り光る丸い顔が現れた。

 希禾は鼻水をすすり上げ、肩を大きく揺らしてしゃくりあげる。


「梨佳お姉さま、聞いてください。

 あたし、悔しくて、悔しくて」


 その幼さを案じて、長兄は希禾を大切に可愛がっている。

 しかしいくら可愛くても、年越しの夜は、彼も一番目の妻のもとで過ごす。

 そのことを悔しいと泣いているのだろうか。

 そうであれば、なんと慰めたらよいものか。


 しかし、梨佳の心配をよそに希禾は言った。


「新しい年をむかえるために、大奥さまがお着物を用意してくださったのに、明日、それが着られないなんて」


「まあ……」


 その後に続く「呆れたことを」という言葉を、梨佳はかろうじて飲み込んだ。

 薄暗いので、顔の表情を読まれていないことは幸いだ。


「ご隠居さまが亡くなられたばかりですよ」


「だって、だって、あたしのあのお着物の柄、桃秀ちゃんのお着物と同じくらいに可愛かったのです」


 張り合う相手が他の妻たちではなく、赤子の桃秀とは。

 その幼さを微笑ましく思いながらも、一抹の不安も覚える。

 しばらく考えて、梨佳は彼女を慰める言葉を思い出した。


「新年のために誂えたお着物を着ることが出来ないことには、大奥さまもお心を痛めておられます。そのために、喪も開ける桃の花の咲くころに、桃秀の誕生祝いを盛大にしてくださるご予定とか。


 その時は、希禾さんも新しいお着物が着られますよ。

 楽しみに待っていましょう」


「まあ、梨佳お姉さま、それは本当ですか。

 嬉しい!」


「ですから、部屋に戻って、暖かくして寝るのですよ。

 大切な体でしょう?」


 嫁してきた時は柳の枝のように細かった希禾の腰が、この最近、丸みを帯びてきたことに梨佳は気づいていた。


「えっ、わかります?

 もう少し安定してからって旦那さまが言われるので、まだ秘密なんです。

 うふふ……」


 いま泣いたカラスがもう笑うとは、このことを言うのだろう。


「桃秀ちゃん、はやく寝ついてくれるといいですね。

 では、梨佳お姉さま、おやすみなさいませ」


 希禾はそう言うと、暗闇でも見える目が足にあるかのように、若鹿のごとく軽やかに跳ねながら去っていった。





 意味のわからぬ大人の話がよい子守唄となったのか。

 希禾が去った後すぐに、桃秀は梨佳の腕の中ですやすやと寝入った。


 無防備に寝入った赤子は持ち重りがする。

 部屋に戻る渡り廊下の途中で足を止めて、赤子を抱き直した。


 風のない中で降る雪は、天からまっすぐに舞い落ちきて静かに積もっていく。


 規則正しい寝息を立てている桃秀に、梨佳はそっと話しかけた。


「家族が増えるのだもの。

 私たちの部屋は、希禾さんと生まれてくる赤ちゃんに明け渡さなくてはね」


 夫の如賢が、安陽を出ると言った言葉が現実味を帯びて来た。

 安陽で過ごす年越しの夜は、きっと、これが最後となる。








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る