245 雪降り積もる年越しの夜・その4



 綿の入った小さな布団でくるんだ桃秀をあやしながら、しんしんと底冷えする渡り廊下を、梨佳は足音を立てぬように気づかいながら歩いていた。


 家のものたちは皆すでに寝入っている。

 どの部屋の窓からも灯りは漏れていない。

 しかし庭に積もった雪が白々と輝いて、渡り廊下はほのかに明るい。


 花火や爆竹の弾ける音がまだ聞こえてこないので、真夜中ではあるが年は変わっていない時刻だ。


 最近、夜中に目覚めた桃秀が火のついたように泣く。

 抱き上げて気長に揺さぶってあやせば、そのうちに泣き止んですやすやと寝息を立てて眠り始めるので、体のどこかが悪いというのではなさそうだ。


「心配することはないよ。

 知恵がつき始めたころの赤子は、夜泣きするものだよ。

 いっときの心配事だからね」


 子育てを経験している姑や兄嫁たちが、口々にそう言って慰めてくれた。


 母の萬姜も言った。

 荘家の養女となって沈家に嫁いだ梨佳を、我が子でありながら、萬姜は他人行儀に梨佳さまと呼ぶ。


「沈家の皆さまの言われる通りですよ。

 梨佳さまも、桃秀ちゃんと同じころには夜泣きして、わたしを困らせたものです。

 きっと、桃秀ちゃんも、梨佳さまのように賢い女の子になりましょう」


 それで桃秀が夜泣きし始めると、隣で寝ている夫の如賢を起こさぬようにと、赤子を抱いて部屋を出る。


 お守りを任されていた祖父の明宥が亡くなってから、如賢はまじめに薬種問屋の仕事を手伝うようになった。朝早くから夜遅くまで店に出て、独楽鼠のようにくるくると身を動かして働いている。


「おれ、仕事を覚えたら、小さい店を持たせてもらえるように、親父に願い出ようと思っている。安陽から離れることになるけれど、梨佳、桃秀と一緒についてきてくれるよね」


「まあ、そのようなこと、わざわざおっしゃるなんて。

 どこへでも、如賢さまの行くところについていきます。

 わたしは如賢さまの妻ですもの」


 夫の決意を嬉しくも誇らしく思った彼女は大きく頷いた。

 だから、昼間の仕事で疲れて寝ている夫を、桃秀の泣き声で起こしたくはない。


 長い渡り廊下の突き当りは台所になっている。


 沈家の大所帯の食事を賄う場所だから、土を固めた作ったかまどがずらりと並んでいた。それらは夕餉の支度が終わったあとに火を落としても、一晩中、ほんのりと暖かい熱を保っていた。


 冬の寒い夜、夜泣きする赤子をあやすにはよい場所だ。




 真っ暗な台所だが、窓から雪灯りが漏れ入ってきている。

 目が慣れると、躓くということもない。


 ここなら、桃秀が泣こうと梨佳が子守唄を囁こうと、誰の邪魔をすることもない。

 しかし、今夜は違った。先客がいた。


 その人影は、かまどの傍らにうずくまっていた。


 まさか、桃秀の顔を見たくてご隠居さまが……と、一瞬、梨佳は考えた。

 しかし、沈家の最長老として一度たりとも足を踏み入れたこともない台所に、彼の幽霊が現れるとは思えない。

 それも、かまどの陰に隠れるようにして蹲っていることなどありえない。


「おまえは誰です?

 名乗らないのであれば、大声を出して、人を呼びますよ」


 気丈夫な梨佳の問いかけに、その人影は逆らうこともなくよろよろと立ち上がった。

 







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