240 沈明宥、死す・その9



 夜も更けた沈家の隠居部屋に、明賢がやって来た。

 几帳面で律儀な性格の彼は、父・明宥への就寝の挨拶を欠かしたことがない。


「ご隠居さま、まだ床に入っておられなかったのでございますか。

 今日は久しぶりの外出で、お疲れになられたことでしょう」

 

 戸口で居住まいを正しながらそう言う息子を、明宥は手招きして部屋の中に入れた。


「ああ、明賢、ちょうどよいところに来た。

 慶央の荘興さんに文を書き終わったところだ。

 これを、あすの朝一番に、慶央に送っておくれ」


「慶央の荘興さまに?」


「今回の安陽での戦いにおける英卓さんの活躍やら、美しい白麗お嬢ちゃんのことなど、他愛ない内容ばかりだよ。

 すでに荘興さんは、英卓さんや関景さんの文で知っていることではあるだろうが」


「承知いたしました。

 ちょうど極上の薬用人参が入荷したばかりにございます。

 それも添えてお送りいたしておきます」


「おお、それはすまないねえ。

 よろしく頼むよ。

 それからもう一つ、頼まれておくれでないか。

 酒を持って来て欲しいのだ」


 よどみなく交わされていた父子の会話が途切れた。

 しばらくの沈黙ののち、小首を傾げた明賢が答える。


「ご隠居さま、心の臓の病には、酒はよろしくないと思われますが」


「いや、飲むのではない。

 なんだか突然、ご先祖さまを供養したくなってね。

 ご先祖さまとのお相伴に、少々、口に含むだけだ。

 心配はいらないよ」


 また少し、親と子の会話の間が空く。


 明賢は、沈家の親類縁者の話を聞くことなく育った。

 もちろん、家の中には沈家代々の位牌もなく、また墓のある場所も教えてもらったことがない。


 真夜中に父の明宥が庭に出て、地に酒を撒き残りの酒を口に含んでは、蹲って叩頭する姿を何度か見たことがある。 

 先祖供養であろうと思った。

 しかし、そのことを口に出して問うことは、沈家の禁忌だった。


 商人らしく顔色にも声色にも心の内を見せない明賢が、再び答える。


「それを聞いて安心いたしました。

 のちほど、下働きのものに運ばせましょう」


「ああ、そうしておくれ」


「では、お休みなさいませ、ご隠居さま」





 真夜中、沈明宥は胸を締めつけられる痛みで目が覚めた。

 彼はもう、自分の心の臓にもその心の臓を握り潰そうとしている死神にも、祈らなかった。


 その時が来たのだ。


 慶央で義兄弟の契りを結んだ荘興にはさりげなく別れの言葉を挟んだ文を書いた。

 六十年前に無念の死を遂げた沈家のものたちには、復讐の終わったことを報告した。


 こののち沈家の冤罪が実証されれば、妹の冬花が必ずや、彼らの墓を建てねんごろに弔ってくれることだろう。


 心の臓が動いている間に、彼がすべきことはあと一つ。

 ただ一つ……。


 彼は激痛の走る胸を押さえながら体を起こす。

 そして褥の上に座り直し、時をかけてゆっくりと、荘家の屋敷のある方向に体を向けた。


 精悍な英卓の顔と、美しい白麗の顔を思い描く。


 彼はかろうじて姿勢を正し、掌を上にした震える両手を前に差し出した。

 そしてそのまま体を折る。


「英卓さん、そして髪の白いお嬢ちゃん。

 わたくし林高章は、お二人から受けた大恩に深く深く感謝いたします」


 叩頭した明宥の額が床に触れた。

 その瞬間、彼の心の臓が最後の鼓動を打って止まった。







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