239 沈明宥、死す・その8



――沈家とは、六十年前よりのかりそめの名前。

 如賢、おまえの体の中には、青陵国の建国にもかかわった名門林家の血が流れているのだぞ――


 明宥は怒りに任せて、如賢を怒鳴りつけようとした。

「この軟弱ものが! 林家の名折れだ!」

 しかし明宥の舌は上顎に貼りつき、声とはならなかった。


 不用意な怒りに身を任せたために、彼の心の臓が暴れた。

 胸に激痛が走る。

 彼の体から、死神が心の臓を引っ張りだそうとしている。


 痛みで視界が暗くなる。

 明宥は如賢を見やったが、若い孫は虚ろな目をしてあらぬ方を見つめていた。

 処刑場での光景を思い出しているのだろうか。


 明宥は顔を背けて、悲鳴をあげる自分の心の臓と死神に祈った。


――止まるのは、まだだ。もうしばらく動いてくれ。

 この老いた命など、いつでもくれてやる。

 だが、今ではない。あとしばらく待ってくれ――


 顔をゆがめ身を二つに折って、痛みをやり過ごしたいところだ。

 だが、彼は如賢に気づかれるのを恐れた。

 爪で皮膚が破けるほどに両手を握りしめ、痛みが去るまで耐えた。




 馬車が揺れて、馬の蹄の音が止んだ。

「如賢さま、ここでございます」

 御者の声がする。


「爺さま、ついたぞ」

 御者の声に、如賢が馬車の窓の垂れ幕を引き上げる。

 

 窓ににじり寄った明宥は、狭い隙間から外を見た。

 大通りの正面に広場がある。

 朝廷のお触れ書きが掲げられたり、戦いに向かう兵士の閲兵式があったりする場所だ。


 そこに人だかりがしていた。

 たくさんの黒い頭の向こうに、ものものしい恰好をした警備の兵士たちの姿が見えた。

 その後ろの杭の上に渡した長い板に、黒い丸いものが並んでいる。


「これでは、何も見えないと同じではないか。

 もっと馬車を寄せろ」


 苛立った明宥に、如賢は焦ることなく答えた。


「沈家のご隠居さまが晒し首見物をしに来たと、安陽の人たちに知られてはならないと、親父に強く言われている。

 絶対に目立つなと」


「ふん、小賢しい明賢めが」


 一段高くなった板の上に、丸いものが三つ並んでいる。

 想像するに、その真ん中が袁開元の首に違いない。


――それにしても、ここから見ると、明賢の言っていた通りだ。

 腐った大きな芋だ。

 ああ、そうであったな。

 死を願うほどに憎んだ男でありながら、おれは、袁開元の顔をまともにみたことがなかった。

 こうして晒し首になっても、見分けがつかぬということか――


 そして、彼はすべてが終わったことを知った。

 孫の如賢は「人の栄華も終わる時は一瞬」と言ったが、自分の六十年をかけた復讐も、この時、一瞬にして終わったのだ。


「もういい。如賢、戻ろう」


「それがいい、爺さま。

 風邪でもひかれたら、大変だ。

 あっ、そうだ、爺さま。

 おれが処刑を見に行ったことは、親父には内緒だからな。

 商人が政に興味を持つのを、ことのほか、親父は嫌がるからなあ」


 如賢の顔には屈託のない笑みが広がっている。

 そうだ、心の臓が動いて口が動くいま、この孫に言っておかねばならないことがある。


「如賢、父親の明賢の教えを守って、いい商人になれ。

 そして、梨佳と仲よく暮らせ。

 もっともっと子を生すのだぞ」








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