180 峰貴文、亜月と出会う・その3



 貴文のため息を聞いて、口々にまくし立てていたものたちはその口をつぐんだ。


 この芝居小屋は、貴文一人でもっているようなものだ。

 看板役者の貴文が舞台に立てば芝居小屋はいつも満席だが、貴文が出ないと知ると客も正直なもので、空席が目立つ。


 役者それぞれに贔屓はついてはいるが、その数は知れている。

 貴文の代役を安心して任せられるものは、まだいない。


 贔屓筋と外で会って金のためにその身を売るのはやめてくれと、貴文に向かって偉そうに言えるものは、いまここに誰一人としていないのだ。


 急に押し黙った仲間に気づいて、貴文が明るく言った。


「舞台の上で死ぬのは役者の本望って、世間では言うけれど。

 あたしはそうは思わないわ。

 あたしを可愛がってくれる贔屓筋の柔らかな腹の上で、いい夢を見ながら死ぬのも、役者冥利に尽きるというものよ。

 そのうえに、相手が人ではなく化け物であったらなおさらのこと。

 役者としての峰貴文の名は、後世まで語り継がれることでしょうねえ」


 皆を笑わせるつもりで貴文は言ったつもりだ。

 だが、意に反して誰も笑わない。

 こんなしょぼくれた顔をしたものたちを舞台に立たせるわけにはいかない。


 しかたがないので、貴文が笑ってみせる。


「うふふ、みんな、お馬鹿さんねえ。

 本当に嫌なことは、あたしだってしないわよ。

 それにあたしには、腕に覚えのある蘇悦ちゃんがいることだし……」


「おう!」

 一声唸った蘇悦が、返事の代わりに刀の柄を叩いた。


「そうだ、そうだ」

「蘇悦さん、峰さんのことは頼むぞ」


「おっと、あの新のやつも忘れちゃいけない。

 いざとなれば、そこいらの大人より、あいつは役に立つ」


「安陽で、やつの知らない道はないからなあ」


「猫が通れるところで、新が通れないところはないって話だぞ」

「いくらなんでもそれはなかろう」


 狭い楽屋を震わせるような笑い声が、皆の間から起きた。


「さあさあ、みんな、こんなところで油を売っている場合じゃないわよ。

 もうすぐ幕が上がるわ。

 お客たちに、今日も最高の芝居をみせるのよ」


 ぱんぱんと景気よく手を叩くと、まだ喋り足りなさそうな顔をしたものたちを、貴文は追い払った。






***



 芝居が跳ねた貴文を待っていた馬車は、まるで目立つのを怖れているような一人乗りの小さなものだった。


 しかし、見るものが見れば、隅々まで吟味された木材を使ったよい作りだとわかる。

 

 首を垂れてまるで彫像のように立つ馬も、あの宦官のようによく躾けられていて大人しい。

 犬に吠え立てられても、足踏みすらしないだろう。

 そして、舌を切り取られているのか、御者は一言も喋らない男だった。


 大通りを外れた馬車は、その速度を緩めることもなく速めることもなく、右に左にと人通りのない裏道を進んでいく。


 そのうちに誰何する声が聞こえて、重そうな門の開く音がした。


――あらまあ、黒ずくめちゃんのお屋敷って。

 案外と近いところにあったのね――


 馬車の窓の垂れ幕をそっと引き上げて、貴文は外を窺った。

 

 薄茶色の日干し煉瓦を真っ白な漆喰で固めた蔵が、見上げる高さでいくつも林立していた。その蔵と蔵の間の迷路を、迷うことなく、馬は足音を軽やかに響かせて進んでいく。




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