179 峰貴文、亜月と出会う・その2
宦官に背を向けて、貴文は鏡に向かった。
再び、化粧刷毛を手にして、顔を白く塗りながら彼は言う。
「あらまあ、宦官ちゃん。
えらくもったいぶった言い方をするじゃないの。
でもね、あたし。
そういう気を持たせる言い方って、嫌いじゃないけれど」
そう言いながら、鏡越しに宦官を媚の浮かんだ目で睨んだ。
貴文の色気に、さすがの宦官もかすかにたじろぐ。
二階の桟敷に座る主人が誰であるか、見当はつく。
あの黒ずくめの女に違いない。
いつかはこういう日が来ることは予想していたが、それにしても、女が芝居小屋に来るようになってから、お誘いがかかるのにまる一年とは。
えらく慎重な客だ。
聞き耳を立てていたようで、彼の横で忙しなく動いていた他の役者たちが互いに目配せする気配がする。
部屋の隅で壁に背をあずけてだらしなく座っていた用心棒の蘇悦も、のそりとその体を起こした。
慶央で英卓の命を救った謝礼を懐に安陽に遊びに来た蘇悦だが、彼はその金をあっというまに使い果たした。
今では、妓楼の女絡みで知り合った峰貴文の用心棒だ。
そして彼の存在が、峰貴文と安陽で荘新家を立ち上げた英卓を結びつけ、盗賊集団黒イタチにかどわかされた白麗を助けることになるのは、この時より少し後のこと。
貴文は言葉を続けた。
「じゃあ、その主人の言づてというのを聞かせてもらおうじゃないの」
「芝居の終わった後、峰さまのご都合がよろしければ、我が屋敷にてその労をお慰めしたいと、主人は申しております」
「ふぅぅん、それで?」
「芝居小屋の裏に馬車を回しておきますれば、是非にと」
「明日の芝居の準備もあるから、あまり遠出はしたくないのよね」
「我が主人の屋敷は安陽城壁内にあれば、そのご心配は無用かと存じます」
しばらく考え込んだ貴文だったが、口を開けばその答えは明快だった。
「わかったわ。
承知いたしましたと、おまえの主人に伝えて」
恭しく拱手すると、宦官は楽屋を出て行った。
宦官の姿が消えると、仲間たちが貴文を取り囲んだ。
「二階の桟敷の客って、あの黒ずくめの女のことじゃないですか?」
「峰さん、いくらなんでも、あれは。
悪いことは言わない、よしたほうがいい」
「あれは、女物の着物は着ているが。
おれの見るところ、女かどうか怪しいもんだ」
そう言ったあとで慌てて口をつぐんだのは、貴文が両刀遣いであることを思い出したからだ。
そして誰かが声を潜めて言った。
「あれは、どうみたって人じゃない。
化け物だ」
口々に好き勝手を言う彼らを、貴文はぐるりと見回す。
貴文の口から、小さなため息が漏れた。
「あんたたち、あれは、あれはって。
いい加減にしなさいよ。
女だろうと男だろうと化け物だろうと、この芝居小屋の上客であることには変わりはないわ。あちらが会いたいといえば、あたしとしては、喜んでご挨拶に行くのは当たり前のことでしょう」
芝居の興行には、衣装や小道具そして役者たちの給金も含めて、思いのほか金がかかる。しかしながら、貧しい人たちに気軽に見てもらいたいから、芝居小屋開設以来、木戸銭は値上げしていない。
贔屓の客と芝居小屋の外で会って、援助してもらうことも、時には必要だ。
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