※ 第五章 ※
峰貴文と亜月
178 峰貴文、亜月と出会う・その1
峰貴文の所有する芝居小屋は、安陽の街中でも、その日暮らしのものたちが住む猥雑な地域にある。
粗末な家が軒を連ねる中に、安普請の芝居小屋は目立つことなく溶け込んでいる。
風にはためく派手な登りだけが目印だ。
晴天の日には、屋根と壁の隙間から差し込む光に埃が舞い、土砂降りの日には雨漏りさえした。
安陽で手広く茶館や妓楼を営む峰家の財力を持ってすれば、街中の一等地に芝居小屋を建てるのは造作もない。
しかし、弟想いの優しい兄たちの申し出を、貴文は断った。
自分が書き下ろし演じる芝居は、その日その日を精一杯生きるものたちのためにある。芝居を見ている間は、大口を開けて笑い人目を気にすることなく泣いて、考えようのない明日のことなど忘れてもらう。
決して、美酒を片手の男たちや着飾った女たちが楽しむための芝居ではない。
そのための安い木戸銭だ。
しかし、出入り口を別に設けた芝居小屋の二階の桟敷だけは別格だ。
この場所は、他の客たちの目を避けることが出来た。
峰貴文を見たさに、屋敷の外に出ることさえままならぬ立場の女たちが、木戸番が吹っ掛ける値のまま金を払って、ここに座る。
柱の陰からあるいは大きく広げた扇の隙間から、彼女たちは下世話な芝居を眺める。そして峰貴文を見つめて、ため息をつく。
貴文もまた、彼女たちが払った金に似合う妖艶な流し目を、舞台からくれてやるのだった。
そして三年前のこと。
舞台に立っていた貴文は、二階の桟敷から自分を見下ろす女に気づいた。
季節は真夏だというのに、その女は黒ずくめだ。
それだけでも奇異であるのに、女は黒い羽織物を頭から被っていた。
そのために舞台を見下ろす女の容貌は伺い知れない。
しかし、着物や羽織物が、夏の夕暮れ時に水辺を儚く飛ぶカゲロウの羽のように、軽く薄く瀟洒な絹であることは見て取れた。
詰めて座れば十人は座れる桟敷に、その女は侍女らしき女を後ろに侍らせて座っていた。
木戸番にいったいいくら握らせたのだろう。
これから上得意となるはずの女を逃すわけにはいかないと考えながら、舞台で見栄を切るたびに貴文は流し目に込めた秋波をその女に送った。
しかし幕が下りて、客たちの拍手喝采に応えるために再び彼が舞台に出た時は、二階の桟敷にすでにその女の姿はなかった。
その後も、黒ずくめの女は、何度か、貴文の芝居を見に来た。
しかし、幕が下りると同時に姿を消すのも変わらずだ。
そのようにして、一年が過ぎて、再び夏が巡った。
貴文が楽屋で出し物の支度をしていると、若い男がやって来た。
「我が主人から、言づてがございます」
と、恭しく拱手した男が言う。
市井の男の恰好をしていたが、その言葉遣いと所作は宦官だ。
「言づてを言う前に、おまえの主人の名を言ってね。
ごみ溜めみたいな芝居小屋でも、それが礼儀っていうものよ。
宦官ちゃん」
貴文の軽口にも男は動じない。
かなりの地位にあるものに仕え、躾けられた宦官だ。
「それは、今ここで申し上げることは出来ません。
芝居の幕が上がれば、ぜひ、二階の桟敷をご覧ください。
我が主人はそこにおります」
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