177 白麗、三度目の参内・その9



 允陶と但州の笑いに、英卓は心の内に湧き上がっていた峰貴文と亜月への疑念を打ち払った。


 峰貴文は変人だが、人あしらいが上手く処世術に長けている。

 それに安陽の街中をうろつく時は、腕に覚えのある蘇悦が用心棒としていつも彼の傍にいる。

 案じることもないだろう……。


 清々しい笑みを峰新に向けると、彼は言った。


「峰新、朝早くからすまなかったな。

 そうだ、おまえ、朝飯は食ったか?」


 まだ寝ているところを、急ぎの用事があると貴文に起こされた。

 それで井戸端で顔を洗って、ついでにすきっ腹に水を流し込んだ。

 しかし、憧れの男の問いかけに、空腹だとは恥ずかしくて言えない。


 「まあ、英卓さま。

 この年頃の男の子は、どんなにお腹いっぱい食べても、一刻もすれば、またお腹が空くものなのですよ」


 英卓と峰新の間に、萬姜がその豊満な体を割り込ませてきた。

 これから参内する宮中のこともだが、自分が留守をする間の屋敷の内々のことも、彼女は気になってしようがない。

 下働きのものたちにあれこれと指示しているうちに、皆より遅れてしまった。


「それに、峰新は芝居小屋からここまでずっと駆けてきたのです。

 峰新、あとで厨に行って、食べさせてもらいなさいね。

 もし、お腹が空いていないのであれば、饅頭を持ち帰って……」


 笑いを引っ込めた允陶が渋面を作って言う。


「萬姜、いい加減にせよ。

 おまえのせいで出立が遅れているのがわからないのか。

 峰新のことは、残る我々に任せておけばいい」


 深々と萬姜が頭を下げる。


「そうでございました、允陶さま。

 あとのことはよろしくお願いいたします」


 そう言いながらも、ちらりと峰新を見た萬姜の世話焼きは止まらない。


「峰新、その着物、よく似合っていますよ。

 範連のお下がりだからいまは少し大きいけれど、夏が終わるころにはちょうどよい着丈となっているはず……」


 峰新が礼を言うより早く、允陶のいらだった声が飛んできた。


「萬姜!」

「あっ、允陶さま、申し訳ありません」


 その身を小さく縮めた萬姜が乗り込むと、馬車が傾いだ。

 驚いた馬が嘶き、足踏みをする。

 白い髪の少女と嬉児の屈託のない笑い声が、馬車の中に響いた。






 馬車の踏み台が片づけられ、すべての準備が整ったのを確かめると、英卓は見送るものたちに向かって拱手した。


「関景爺さま、行ってまいります」


「天子さまの御前では粗相のないようにな。

 承将軍にもよろしくと伝えてくれ」


「爺さま、承知いたしました。

 では、永先生。のちほど、沈老人宅で」


「おれと範連は、おまえたちよりも一足早く沈家で待っているぞ。

 宮中での土産話を楽しみにな」


 参内の帰りに、英卓たちは沈家の営む薬種問屋〈健草店〉に寄ることになっている。


 ここぞとばかりに着飾った母と妹の姿を梨佳に見せようということでもあるが、久しぶりに、萬姜に孫を抱かせてもやりたい。

 何よりも沈明宥は宮中の様子を聞きたがることだろう。


 そしてまた但州は医師として、最近、沈老人が胸を押さえて息を止めるという梨佳の夫の沈如賢の言葉も気になる。

 沈老人は「老いただけのこと」としか言わないが、脈を診る必要がある。

 しかしそのことはここで口にすべきではなかろう。






 見送るものたちと見送られるものたちそれぞれの想いの中、門の陰に身を寄せて峰新もまた嬉児への想いを抱えたまま一行を見送っていた。


 長く続く荘家の土塀の角を、騎乗して先頭を行く英卓と堂鉄と徐平が曲がろうとしている。

 その後ろに嬉児たちの乗った馬車が続く。


 突然、馬車の窓の垂れ幕が跳ね上がって、白麗と嬉児が顔を覗かせた。

 二人は見送りのものたち向かって手を振った。


 その時、何かが、峰新の背中を押した。

 躊躇して踏み出した一歩だったが、踏み出してしまえば彼の体は初夏の風を切って、前へ前へと駆けていた。


――今日の嬉児はかわいい、きれいだ――


 いま、その言葉を言わなければ、いつ言うのだ?

 今日という日は、今日にしかない。









(『白麗、三度目の参内』が終わりました。

 次回より、第5章となり、峰貴文と亜月のエピソードとなります)







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