176 白麗、三度目の参内・その8



 英卓の手を借りて、白麗と嬉児が馬車に乗り込んだ。

 相変わらず嬉児はふくれっ面のままだ。

 そのうえに、峰新の横をすり抜ける時、ぷいっと横を向いて見せた。


 峰新は心の中で呟いた。

――なんだかんだと、めんどくせえなあ――

 

 しかしそれは、このくらいのことで拗ねる嬉児のことなのか。

 拗ねた嬉児に振り回されて乱れる己の心のことなのか。

 自分でもわからない。


「おう、新。

 おれになんか用事か?」


 白麗に向けていた笑みを顔に浮かべたまま、振り返った英卓が言った。


 片腕がなくとも顔に傷が残っていようと、荘新家の若宗主は恰好がいい。

 峰貴文も美丈夫だが、彼のような男になりたいかいと問われたら、峰新は首を横に振るだろう。

 今のところは、彼にとっては、荘英卓が理想の男の中の男だ。


「峰さんからの言伝です。

 急用のために、今日の参内は行けなくなったと。

 そう言えばわかると言われました」


 峰新の返事に、英卓は浮かんでいた笑みを消す。

 右手で顎の下を撫でる。


「峰さんが急用とは珍しいな」






 先日の承将軍の執務室でのこと。

 別部屋に酒席を設けていると言われて部屋を出ようとした時、隣に立った宇項が言った。


「おお、そうであった。

 もう一つ、聞き忘れていた。

 英卓、峰さんと亜月は顔見知りだったか?」


「亜月とは、黒い着物を着た正妃さまの侍女のことだろう?

 かなりの歳に見えたが」


「そうだ、その亜月だ。

 あの時、亜月と峰さんが言葉を交わしているのを、配下のものが遠目に見たと言っていてな。

 二人がなんについて語っていたかは、残念ながら聞き取れなかったということだが」


「はて?

 宮中に足を踏み入れるのは初めてだと、峰さんは言っていたが。

 禁軍の兵士に化けて覗き見る宮中を、芝居のネタになると喜んでいた。

 宮中の、それも後宮の侍女に知り合いがいるということを、あの峰さんが隠すこともないと思うが。」


「そうだな……。

 好奇心が人一倍旺盛な峰さんのことだ。

 亜月のあの人ならざる姿が気になり、声をかける気になったのかも知れん」


「宇項兄、おれから、それとなく峰さんに聞いてもよいが」


「いや、その必要はない。

 些細なことだ、この話は忘れてくれ」


 宇項の口調は明るかったが、英卓がふと見たその横顔には陰りがあった。


 正気をなくしかけていた正妃の横で、平伏していた黒ずくめの異様な姿を思い出す。ちらりと垣間見ただけだが、亜月という老婆には触れてはならない秘密があるのか。


 貴文にそれとなく探りを入れてみようと思ったが、あの日以来、彼と会っていない。

 そして、今日も急用ができたとの言伝だ。

 顎を撫でて考えてみたくもなる。






 英卓のもの想いを、峰新の不安そうな声が破った。

「おれ、峰さんの急な用事の内容までは聞いていないです」


 しかし、英卓の代わりに答えたのは、見送りに出てきていた関景だった。


「峰さんはな、新しい芝居の筋書きを考えるので、忙しいのだ」


 そして彼は、宙に手を伸ばすと、さらさらと見えない紙に書きつける貴文の癖をまねして見せた。

 気難しい関景の珍しいおふざけだ。

 白麗が機嫌よく参内の馬車に乗り込んだことに、彼は大満足していた。


 そんな関景を見て、同じく留守を守る家令の允陶と医師の永但州が笑う。







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