白麗、三度目の参内

169 白麗、三度目の参内・その1



 陽は安陽の街並みの上にすでに昇り、じりじりと屋根瓦を焼き始めていた。

 本格的な夏の到来はまだ先のことだが、蒸し暑い一日となりそうだ。


 人々が行き交っている通りの向こうに、大きく扉を開いた荘家の正門が見える。

 その前には馬車が一台と、従者にくつわを引かれた馬が何頭も並んでいた。


――よかった、間にあった。

 いつだって、峰さんは、急に言い出すんだものなあ。

 朝っぱらから、さすがのおれも慌てたじゃないか――


 荘家の門番二人を見て、峰新は足を止めた。


 門番たちはいつも上から見下ろして「おい、小僧」と言いながら、容赦なくからかってくる。時には笑いながら長い手を伸ばして、結った髷が崩れるほどに頭を小突いてくる。

 口達者だがまだ世間を知らない子どもの峰新をからかうことは、暇な門番たちにとってかっこうの暇つぶしなのだ。


 彼らと引き下がらずに言い合うには、ここで一度息を整えておかなければならない。


 足を止めて、峰新は景気づけに胸をぽんと一つ叩いた。

 峰貴文の英卓への言伝ことづては、ちゃんと胸の中に収まっている。

 大丈夫だ、忘れてはいない。


 急ぎ足で上がっていた息を整えて足を一歩踏み出した時、体格のよい門番と扉の間に薄桃色の女の着物がちらりと見えた。

 意志とは関係のないところで、彼の心の臓がとくんと一つ跳ね上がった。


 ――なんてことだ、よりにもよって、あいつがいるなんて――


 案の定、峰新の姿を見つけた門番の一人が手招きをした。

 にやにやと笑っている。


 その男の後ろから、丸い顔をした嬉児が顔を覗かせてこちらを見た。

 峰新を見つけて、まるで花がほころんだかのような笑みだ。






「おい、新。

 可愛い嬉児ちゃんを待たせちゃいかんだろう」


 門番の一人がそう言い、峰新の頭を小突くために手を伸ばしながら、もう一人の門番も言う。


「おいおい、新。

 今日は、えらくこざっぱりとした着物を着ているじゃないか。

 それは、嬉児ちゃんのためか?」


 敏捷な動作で門番の手を避けると、精一杯胸を張って峰新は答えた。


「そんなんじゃない。

 英卓さまにと、峰さんからの言伝ことづてを頼まれているんだ」


「おお、そうだったのか」


 主人の名前を聞いて、緩んでいた門番たちの顔が引き締まった。

 屋敷の内を窺いながらもう一人が言った。


「英卓さまならもうじきここに来られる。

 嬉児とお喋りでもしながら待っているといい」


 そう言ったあとの彼らは、再び、まじめな門番の顔に戻った。


 峰新の目には、いつだって嬉児は可愛い。

 それでもこんなによい着物を着て、頭も一筋の髪の毛の乱れもなく結っている彼女を見るのは初めてだ。


 正面からまともに見るのが眩しい。


 彼の心の臓は踊り出し、釣り上げられた魚みたいに息が苦しくなる。

 しかし嬉児はそんなことにはまったく気づいていない。

 満面の笑みのまま彼女は言った。


「今日はね、白麗おねえちゃんは、笛を吹かないよ。

 みんなでお出かけするの」


 峰新は、屋敷の外に漏れる白麗の笛の音を聴きに来るものたちに座る場所を提供して、それで小遣い稼ぎをしている。

 そしてその情報源は嬉児だ。


――なんだ、嬉児は出かけるのか。

 おれのために着飾っているわけじゃないのか。

 当たり前といえば当たり前だけど――


 舞い上がっていた体が地面に叩き落とされたような気分になった。


「そうみたいだな。

 言われなくても、見ればわかるさ」

 






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る