137 宮中に響き渡る笛の音・その5




 堂鉄の大きな体は、手を伸ばせば触れるほどそばにあった。

 しかし、小柄な萬姜がせいいっぱいに胸を張り顔を上げても、逆光に阻まれて彼の顔の表情までは見えない。


「えっ、なんでございましょうか?」

「それがな、ちょっと言いにくいことなのだが」

「はい……?」


 茶菓子の用意を急がなくてはという思いと、このままずっとここに立っていて男の言葉を待っていたいと思いの狭間で、萬姜の心が揺れる。


「萬姜、おまえの……」

 堂鉄の手がためらいながら伸びてきた。

 その手に引き寄せられるように、萬姜の体が傾く。


「おまえの顔のことだが……、汚れているぞ」


 その言葉と同時に、堂鉄の手が引っ込んだ。

 我に戻った萬姜は、こぼした涙が頬を伝い乾いた筋として残っていることに気づいた。慌てて傾きかけた体を戻す。


「あら、嫌ですわ。

 そういうことは、早くおっしゃっていただかないと」


「ああ、いや、そういうつもりで言ったのではないのだが。

 すまなかった」


 再び、大きな体を縮こまらせた堂鉄が困ったように言う。

 くるりと後ろを向いた萬姜は懐から出した手巾で頬をぬぐった。


 気にかけてくれている人がいるというのは、なんと嬉しいことなのだろう。

 独りぼっちではないという思いは、これほどまでに身も心も軽くするのか。


……ああ、困ったわ、今度は、嬉し涙が溢れそう……





 菓子を盛った高坏と英卓と千夏と白麗の三人分の茶器を大きな盆に載せて萬姜が白麗の部屋に戻ると、千夏が楽しそうに英卓に話しかけていた。


「英卓さま、今度、宮中へ参るのはいつの日がよろしいでしょう?」


 玉を転がすという言葉はこの声のためにあるのだと思うほどに、よい声だ。

 副妃の声も妙なる音曲のようだが、千夏の声もまた美しい。

 世間の常識に当て嵌めればすでに子の二人や三人産んでいてもおかしくはない年齢なので、その容姿は深層の令嬢というには程遠いものがあるが、声だけを聴くと承家のお嬢さまなのだと思わされる。


「副妃さまからの催促の文が、毎日、矢のように屋敷に届いております。」


「そのお言葉、もったいなく思います。

 しかし、どうにも、麗は、型苦しいことが性に合わぬようで。

 慶央の父が、甘やかしすぎたのでしょう」


「このように可愛いお嬢さまですもの。

 お父上さまの可愛がりよう、目に見えるようでございますわ。

 はやくよい治療法が見つかればよろしいですのに」


 ここ安陽では、白麗を妹だと偽っている。

 そして、その嘘を固めるために、言葉の喋れぬ治療法を見つけるために妹を伴って来ているのだと、ことあるごとに英卓は吹聴していた。


 しかしながら、そんな二人の会話は白麗には聞こえていないようで、さきほどまで千夏に教えてもらっていた踊りの手振りを、嬉児を相手に確かめ合っていた。

 可愛らしく大人しそうな見かけと違って、彼女は体を動かす遊びが好きなのだ。


 しばらく白麗を見つめていた千夏がすっと背筋を伸ばすと言った。

「白麗さまの笛の音、天子さまも楽しみにされています」








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