138 宮中に響き渡る笛の音・その6




「食い逃げは恥だ」と、英卓に脅されたからか。

 白麗の手を取り、千夏がこまごまと世話を焼いたせいか。


 あの日、冬花の願いを聞き入れる形で、白麗は承家の中庭で笛を吹いた。





 白麗を自室に招いた千夏は、乱れた少女の白い髪を結い直した。

 化粧台の前に並んだかんざしの中から、似合いそうなものを思案の末に選んで挿す。

 少女の美しさを損なわないようにと気を配りながら、薄く化粧も施した。

 最後の仕上げに両目尻に紅を一刷毛ひとはけ加えると、少女の美しさはこの世の人ではなくなった。


「ご自分の簪を、白麗さまにお与えになられるとは。

 千夏さまほど、お優しい方はおられません」

「千夏さまのお化粧の技、さすがでございます」


 千夏さま、千夏さまと、春の小鳥さながらに侍女たちが、横にいて姦しくさえずる。


 そして、このような時のためにと、萬姜が用意し持参していた袖と裾の長い被布を白麗に羽織らせる。


 慶央の呉服商・彩美堂の主人が餞別代わりにと心を砕いて誂えたものだ。 

 今日の安陽の空のように薄青い地色に、裾には色とりどりの牡丹の花の刺繍が施されている。被布の裾を広げて白麗が立つと、天女が牡丹の花の中に降り立ったかのようだ。


 侍女たちがまたまた姦しくいっせいに称賛の声をあげようとした。

 しかし、少女に睨まれて、彼女たちは口を閉じた。

 「あちらを向いて、こちらを向いて」との言葉に言いなりなって、着飾ることに飽き始めていたのだろう。


 その腹いせなのか。


 再び、千夏に手を取られて歩き出した女主人の着物の裾取りをしようとした時、体当たりしてきた侍女の一人に、萬姜はまた弾き飛ばされた。






 白麗の笛の音は即興だ。


 聴くもの皆が息をすることを忘れた静寂な中を、笛の音だけが流れる。

 妙なるその音を聴いて、人はそれぞれの過去に心を遊ばせ、今を思い、そして未来に願いを祈る。そのうちに彼らの頬を涙が伝うが、そのことに気づくのは笛の音が途絶えたあとだ。


 改築が終わったばかりの漆の塗りも艶やかな御殿。

 白い玉砂利。

 白麗のために用意された緋色の毛氈。

 その中にあって、笛を構えて立つ少女は美しい絵のようだった。


「あっ、ちょうちょうだ!」


 思い出すほどの過去もなく、思い煩うほどの今もなく、思い描くほどの未来もまだない幼い子の一人が叫んだ。


「きれいなちょうちょうが、おねえちゃんのまわりをとんでいるよ!」

「お父さま、お母さま、見て、見て!」


 口々にそう叫ぶと、蝶を追って子どもたちが飛び出してきた。

 その騒ぎに少女の笛を持つ手が下りて、同時に、一陣の温かな風が少女と子どもたちの間を吹きわたった。

 その風に乗って、子どもたちの手を逃れた蝶が空へと昇っていく。


「あっ、ちょうちょうがおそらに……」

「つかまえようと思ったのに……」


 子どもたちの残念そうな声に、大人たちはひとときの夢から覚めた。

 しかし、少女の笛の音をたたえる言葉が思いつかず、沈黙を保ったままだった。


 その時、第五皇子が叫んだ。


「お母上さま、白麗の笛の音をお父上さまにもお聞かせいたしたく思います」


 優しい笑みを浮かべた副妃が答えた。


「皇子、それはとてもよい考えですね。

 白麗の笛の音を、きっと、天子さまも喜ばれることでしょう」


 





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