136 宮中に響き渡る笛の音・その4
空を仰ぐと、懐かしい新開の町を思い出して涙が溢れそうだ。
萬姜は地面を見つめて何度目かの溜息を吐きだした。
「萬姜、赤子の名前が、それほど気になるのか?
ならば、若宗主に頼んで、沈家の祝いに駆けつけたらよいものを」
背中から聞こえてきた男の声に、「ひっ!」と悲鳴を上げて萬姜は飛び上った。
振り返ると、巨躯を縮こまらせた堂鉄が立っている。
「す、す、すまんことをした。
お、おまえを……、驚かせるつもりはなかったのだ」
萬姜のあまりの驚きように、今度は声をかけた堂鉄がうろたえた。
子犬に吠えつかれて、その対処に困っている大男といった感じだ。
その姿に、一瞬、今までの悩みを忘れ、萬姜は荘新家の女中頭としての矜持を取り戻した。堂鉄を見上げると、胸を張って彼女は言った。
「梨佳さまは、荘興さまの養女で、すでに沈さまの家のものでございます。
沈さまのお祝い事の席にわたしのようなものが出るなど、考えられません。
それでも、英卓さまと沈さまのご配慮で、出産に立ち会わせていただき、元気な赤子の顔を見ることの出来たわたしは果報者。
赤子の名前は、そのうちに知らせが参りましょう。
わたしは荘家の女中頭として忙しい身であれば……」
一気に捲し立てながら、自分でも自分の舌のまわりように驚く。
疚しさを覚えるものほどあれこれ言い訳するものだと頭の隅で思ったが、口から出てくる言葉は止まらない。
しかし、「忙しい身」だとまで言ったところで、ここで独り佇んでいる矛盾に気づき口をつぐむ。
「そうか、それならばよいのだ。
何やら思いつめているような背中をしていると思ったのだが、おれの勘違いのようだったな」
萬姜がやっと黙ったところで、堂鉄は言った。
すでにいつもの沈着冷静な彼に戻っている。
そして、屋敷を振り返り、踊りに興じている女たちの様子を見て、彼は言葉を続けた。
「なんとも賑やかなことだな」
「承家の千夏さまがお見えになっておられます。
白麗お嬢さまに都の流行りの踊りを教えてくださっているのです。
皆さま、お楽しそうで……」
「そうだな、確かに楽しそうだ」
堂鉄の口調には、慶央より付き合いのある萬姜だからこそ伝わる苦々しいものが微かに含まれていた。
外で仕事中の英卓に、承家の何者かが千夏の来訪をご注進申し上げたのだ。
無視するわけにも行かず、英卓は千夏の機嫌伺いに戻って来たのだろう。
畏れ多くも副妃をいただく承家との親密な付き合いで、戸惑っているのは萬姜だけではない。荘家のものたちがそれぞれの立場で、その変化を喜びつつも困惑もしている。
堂鉄の口調は、萬姜にそう教えているようでもある。
突然、萬姜が素っ頓狂な声を上げた。
「あら、どうしましょう。
堂鉄さまがここにいらっしゃるということは、英卓さまがお戻りになっていらっしゃるということ。
わたしったら、こんな所で油を売っている場合ではありませんわ。
すぐに、皆さまの茶菓子の用意をしなくては」
そう言って、するりと堂鉄の脇をすり抜けようとした萬姜の前に、なぜか堂鉄が立ちはだかった。
「萬姜、ちょっと待て。
おまえに言いたいことがある」
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