101 杖刑王妃と斬首宰相・その11



 額から汗が流れ落ちてきたのか。

 着物の袖で顔をぬぐうと、開元は言葉を続けた。


「もちろん、

『たかが夢ごときで、天下に勅令を発するなどと、前例がありません』と、

 おれも言おうとした。


 しかし、六十年前に書庫が焼け落ちたことで、前例があるかないか調べようがないと、ほんの一瞬だが躊躇してしまってな。


 その時、おれの後ろで、まことしやかに言い放ったやつがいる。


『天子さま、それは吉兆にございます。

 昨年より続いた皇子さまたちの早世に、民々の間に悲しみが満ちております。

 いま承家に恩赦を与えれば、それは明るい兆しとなること必定。

 民々も喜びましょう』


 くそっ。あの声は誰だ? 

 袁家に逆らうような命知らずが、まだ宮中に残っていたとは。

 あいつを引きずりだして、即刻、その首を斬り落としてやらねば。

 こうなったら、付和雷同した他の大臣たちも、皆、斬首だ」


 斬首だ、斬首だと、息巻く開元を前にして、亜月は無言で顔をあげた。

 糸のように細い目が少し開いて、ぬめぬめとした黒い光が漏れる。

 ぞっとした開元は口を閉じた。


「お坊ちゃま、たかが下女のわたくしめには、朝議のお話はむつかしゅうございます」


 話の腰を折った亜月の言葉に、噴き出た冷たい汗が開元の首筋を流れる。

 再び、彼は着物の袖でその汗をぬぐった。

 そして、老女を相手に精一杯の虚勢を張るために、その背筋を伸ばす。


「おお、そうであったな。

 たかが下女ごときのおまえに、ながながと朝議の話を聞かせてもしかたがない。

 おまえを呼びつけた、肝心の話を忘れるところだった。

 亜月よ、おまえに少しばかりの頼みがある」


「この亜月、お坊ちゃまのためとあれば、喜んでなんでもいたします。

 なんなりとお申しつけくださいませ」


「承将軍が安陽に戻って来ることを、どのように正妃に伝えればよいのか。

 その方法に、おまえの知恵を借りたいのだ。


 皇太子冊封が目の前に迫っている時に、第七王妃の兄である承将軍が安陽に戻って来ると知った時の、正妃の怒りが目に見えるではないか。

 宰相であるこのおれでさえ、杖刑にしかねんぞ。」


「まあ、お坊ちゃま。

 そのようなことをおっしゃってはなりません」


「いやいや、おれは本気で言っている。

 我が妹ながら、あの気の強さは尋常ではない。


 袁家の女子おなごを入内させて子を生ませ、その子を次期天子にするという袁家三代にわたる悲願は、むろんのこと、おれの悲願でもある。

 多くのものを貶めて斬首してきたのも、そのためだ。


 しかしながら、父上は、妹を甘やかしすぎた。

 最近のあいつの悋気りんきは、兄のこのおれにさえ手に負えぬ」


 開元の冗談とも本気ともとれる正妃への愚痴を、亜月は無視した。


「さようでございますね……。

 わたくしめから正妃さまに申し上げてもよいのですが。

 それでは、宰相さまと密談して口裏を合わせていると、正妃さまに勘繰られる恐れもございますでしょうし。


 では、宰相さまのところの宦官を、正妃殿に使いに寄越すというのは、いかがでございましょうか?


 宰相さまのお言葉を、その宦官に言わせるのです。

 そしてまた、選ぶ宦官は屈強な体格をした、杖刑五十回に耐えられる若者がよろしいかと」


 そう言うと、おほほ……と口元を隠して亜月は笑った。

 

 



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