102 杖刑王妃と斬首宰相・その12




「それにしても、暑い。暑くてたまらん。

 早く、涼しくなって欲しいものだ」


 ぶつくさと呟きながら去っていく開元を、亜月は拱手し深く頭を垂れて見送った。

 男の巨体と護衛の若者二人の後ろ姿が、生い茂る木々の向こうに隠れる。


 拱手の礼を解いた亜月は、ゆっくりと丸めた背中を伸ばした。

 ああ……と、思わず声が出たほどに、体が喜ぶのがわかった。


 ついでに首も伸ばして、顔を上げて周囲を見渡す。

 四阿あずまやの朽ちかけたひさしから見える、青い空と沸き上がった白い雲。

 木々の葉の間から漏れるきらきらと輝く夏の陽射し。

 ああ、なんと、美しい……と、また声が出た。


 あの日、彼女が一瞬にして失ったのは、若く女らしい容貌だけではない。

 人前で背を伸ばし首を巡らして、美しい景色を愛でる自由すら失った。

 喉を焼いた薬の苦さ、気を失うほどの全身の痛み。

 昨日のことのように憶えている。


 再び背を丸めて、彼女は得体のしれない老女の姿に戻る。


……承将軍が戻って来るとなると、宮中の警備も、いまのように緩くはない。

 ここで開元さまと密談するのも難しくなるはず。

 いらぬ詮索を受けぬように、白磁の椅子は片づけさせておかねば……







 開元との打ち合わせ通りに、宦官の杖刑が三十回目を数えるころ、亜月は正妃殿に戻って来た。


 よい体格をした若い宦官だったが、杖台の上ですでに気を失っていた。

 五十回となれば、若い男といえどもその命は危うい。


 正妃を諫めた宮女の杖刑は始まったばかりで、これは運がよかった。

 このようにたびたび宮女を杖刑に処しては、正妃殿では宮女不足となってしまうではないか。


「亜月……、亜月……」


 亜月の膝に突っ伏した祥陽が、彼女の名前をか細く呼ぶ。


「正妃さま、亜月はいつも正妃さまのお傍におりますよ。

 茉莉花ジャスミン茶を飲まれますか?

 冷ましてさしあげましょう」


 まるで幼子のように、亜月の膝の上で祥陽はこくりと頷く。


 彼女の悋気りんきは、生まれながらの気の強さが原因ではない。

 まして、兄の開元が言うように、入内するべく甘やかされて育てられたせいでもない。


 大勢の奴婢たちにかしずかれ人目にさらされる宮中の暮らしの中で、彼女の心は少しずつ壊れたのだ。第六皇子を産んでからは、いずれ皇太子となり天子となるであろう我が子の運命に、彼女の心は耐えられない。


 何十人という妃を持った男の正妃となるよりは、平凡な男と結婚したほうが祥陽は幸せになれただろう。

 夫婦で田を耕すか小商いに明け暮れる日々の方が、彼女には向いている。

 乳母として赤子の時から彼女の傍にいた亜月にはよくわかる。


 脇机に置かれている茉莉花ジャスミン茶の入った湯飲みをたなごころに包むように持つと、亜月は優しく息を吹きかけた。

 美しい白玉の茶器の中で、薄緑色の茶がかすかに波立つ。

 よい香りが立ち昇った。


 ……それにしても、なぜ今になって、承将軍が戻って来ることになった?

 それも、先々代の天子さまが夢枕にお立ちになったなど、見え透いた言い訳まで周到に用意して。

 そのうえに、朝議ですかさず叫んだ命知らずがいたという。


 どう考えても、初めから仕組まれているとしか思えぬ。


 最近の天子さまは、第七王妃のもとに足繁く通っておられるとか。

 やはり、あの雲流という学者の入れ知恵か……




                (杖刑王妃と斬首宰相・終わり)

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