081 第五皇子の初恋・その8



 離れて立っている萬姜を英卓はちらりと見た。

 英卓に睨まれたと気づいて、彼女は哀れなほどにその身を縮こまらせた。


 彼は視線を戻して、もう一度、目の前の白麗を上から下へと眺める。

 荘家の当主として、白麗と萬姜の二人を並べて小言を垂れるは、沈老人の別邸についてからでもよいだろう。


「元気そうだな、麗。

 久しぶりにおれに逢えたのだ、嬉しいだろう。

 人目はあるが、抱きついてもいいぞ」


 そう言いながら、彼は右手を広げて構えた。

 少女が喜びを全身で表して飛びついてきたら、いつものように抱きかかえて振り回してやるつもりだ。


 しかし少女は一歩も動かず、金茶色の美しい目を見開いて英卓を見つめている。


……どうした?

 いくらなんでも、このおれを忘れることはないだろう?……


 穴が開きそうなほど英卓の顔を見つめていた少女の目が、突然、暗く陰った。

 薄い金茶色の目が陰った時はろくなことがないと、英卓は今までの経験で知っている。


 案の定、少女はくるりと身を翻した。

 そして駆けだす。


「ウ・マ!」


 堂鉄に手綱を取られていた馬の黒輝が、少女の呼び声に応えて嘶いた。


「お待ちください、お嬢さま!」 

 少女の着替えを持った萬姜が後を追って、足をもつれさせながら駆ける。

「そのようなお姿ではなりません! 

 せめて、羽織物をお召しください!」







 白麗を抱きかかえるはずでありながら虚しく空となった片手を、英卓は眺めた。

 そして、その手でつるりと顔を撫でた。


 昨夜、彼に組み敷かれて乱れに乱れた青愁の白い裸身が、英卓の脳裏に浮かぶ。

 乳房を甘噛みした時のあられもない喜びの声。

 胡玉楼に響きわたるかと思えた大きなあえぎ声に、何度、驚かされたことか。


……くそっ、顔に出ていたか。

 麗のやつめ、時々、妙なところで勘の良さを見せる……


 いつのまにか傍らに立っていた承将軍が、英卓の肩を気安く叩いた。


「あの下女の名前は、確か、萬姜といったな。

 今回のことで、萬姜を責めてくれるな、荘さん。


 荘家の大切なお嬢さんを海に誘ったのはこのおれだ。

 承家では女も泳ぐ。

 それは武人である承家代々の家風だ」


 そう言った将軍の視線の先を追うと、白麗と同じかっこうをした女数人が、半裸の男たちに交じって立っていた。


「いざという時には、女も泳げた方がよい。

 泳げないことで、女がその命を失うことはあってはならないことだ。


 それにな、男も女も夏の海で肌を焼くと、冬に風邪をひかぬ。

 風邪をひかぬ体になるというおれの言葉に、萬姜も渋々ながら納得してくれた。 

 そして、荘さんにはこのおれから話すと、萬姜に約束している。


 それもあってだが、どうだ、荘さん。

 今夜、おれの天幕に来ないか?

 一献差し上げたく思う」


「将軍、お誘いはありがたく受けたいのだが……」


 ここに来る途中で見た沈老人の別邸から立ち上る煙を、英卓は思い出した。

 彼を歓待するための料理が無駄になるのは申し訳ない。


 その時、今までその気配を消していた沈老人が、承将軍の背後よりその姿を現して言った。


「英卓さん、せっかくの承将軍のお誘いに何を遠慮なさる。

 承将軍、あとで料理を届けさせましょう。

 有り余るほどに作らせておりますれば……」


 その言葉に破顔一笑すると、承将軍は答えた。

「おお、それはありがたい」

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