英卓、黒鼬より白麗を奪還する

038 梅鈴、宝成の元へと走る・1


 眠れないまま、梅鈴は朝を迎えた。


 夏の始まりの夜明けは早い。

 しらじらと明ける気配が、部屋の中の薄闇を払っていく。

 人の声や馬のいななきが夜通し聞こえていたが、さすがに明け方近くになると静かになった。


 同室の女たちの深い寝息や、時おり、歯ぎしりが聞こえる。

 誰もがほんの一時の短い眠りに身を任せているのだ。

 今日もまた、白麗のことで蜂の巣をつついた騒ぎとなるのは間違いない。




 沈家から戻ってきた萬姜に、ああ言おうこう言おうと言葉は山のように用意していた。

 しかし、その萬姜は部屋に閉じこもったまま出てこようとしなかった。


 悲嘆のあまり寝ついてしまったのか。

 それとも、避けられているのだろうか。

 あれこれ考えると不安がつのる。


 疑われるのは時間の問題だ。


 世の中にはいっそひと思いに殺して欲しいと願うほどの責め苦があるらしい。

 流行り絵草子で見た、荒縄でぐるぐる巻きに縛られ、棒で打たれて血みどろになった美しい宮女の白い顔を思い出す。

 なんの罪であったのか。宦官との道ならぬ恋であったのか。


 まさに息絶えようとする絵の中の白い顔が、自分の顔と重なる。

 冷血な荘英卓や大男の魁堂鉄のことだ。

 自分を責めて白麗の居所を吐かせるのになんのためらいもないことだろう。


 なんとしても屋敷から出なければならない。

 はやく宝成のもとに逃げなくては。


 梅鈴は同室の女たちを起こさぬように立ち上がり、身支度を整えた。



 

 門は大きく開かれていた。

 急な早馬もそのまま駆け抜けるようにと、開いているのに違いない。

 篝火かがりびはすでに火を落とし、白い煙を立ててくすぶっていた。


 長槍を手にした門番が二人立っている。

 彼らの緊張が、物陰に隠れて様子をうかがっている梅鈴にまで伝わってくる。


 彼らを相手におっかさんのやまいという嘘は通じないだろう。

 せめて門番の一人が徐平であれば……。

 彼なら、自分の必死の頼みを聞いてくれるだろうに。


 彼は確かに言った。

 ……おれさあ、梅鈴のためにだったらなんでもするつもりだよ。

   困ったことがあったら、頼ってほしいなあ……


 人目につかないようにと注意しながらも思案にくれていると、突然、後ろから声をかけられた。


「梅鈴ちゃんじゃないか」

「あっ、徐平さん」


……まさかまさか、ここで、徐平さんに逢えるとは……


「こんなに朝早くから、どうしたんだい? 

 そうか、白麗お嬢さんのことが心配でいてもたってもいられないんだ。

 梅鈴ちゃんは優しいんだね。

 でもいまは、おれたちに任せて、梅鈴ちゃんは自分の体のことを気遣わなくちゃだめだよ。梅鈴ちゃんが倒れたら、大変だ」


 ……そんなんじゃない、そんなんじゃない……


 口から溢れそうになる言葉を飲み込むために、徐平の胸の中に飛び込む。

 思っていた以上の温かく大きな手に抱きしめられた。

 梅鈴の口から安堵のため息が漏れる。


 徐平の体越しに、炭小屋が見えた。

 冬の間は隙間もないほどに炭の入った俵が詰まれていたが、夏を迎えたこの季節にはほとんど空だ。


 彼女は男の胸の中に体を預けたまま、囁くように言った。

「徐平さんに、どうしても聞いて欲しいことがあるの」




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