最終話 殺人鬼たちの夜

4-1

 これから、ある少年と少女の話をする。ほんの少しだけ風変わりで、わずか数センチだけ人の行く道を逸れたばかりに、誰とも交われず、哀れなほどに哀れで、愚かなほどに愚かな少年と少女の物語だ。死に魅入られた少年と死を見出した少女の、つたなくあどけないおとぎばなしである。

 


 たとえば、唯ぼんやりとした不安とでもいうような高尚で文学的な悩みなど、ついぞ胸に抱くことのできなかったぼくだが、なぜかものごころついた時には、たまらなく死に恋い焦がれていた。幸福な家庭はみな一樣に似通っているが不幸な家庭はいづれもとりどりに不幸であるなんて遥か異国の高名な作家に説かれようとも、ぼくはそれらどの家庭も一つだって知らなかった。


 つまるところ、ぼくには。

 ただ、何も無かった。


 だからなのだろう。

 この世の外に行ってみたいと思うことは、ぼくにとってごくごく自然なありふれた欲求だった。夢や魔法の国に生まれ変わりたいと祈るほど突飛ではなく、せいぜい見知らぬ海外を旅してみたいと願う程度に浅はかだった。


 飛び出してみたいと思う――この世の外に。

 飛び込んでみたいと思う――うってつけの場所があることをぼくは知っている。

 小学校の屋上である。



 生ぬるい風の吹く夏の夜だった。

 夏休みにはお盆という教師たちさえも学校を不在とする期間がある――小学生生活も五年目を迎えたぼくは、その間隙かんげきを縫うことにした。


 呆気ないほど侵入は上手く運んだ。暗闇に身を浸すように、ぼくは月明かりを避け、校舎の影に沿って歩んだ。陽のあたる場所は、いけない。その足取りは、ぼくのそれまでの人生をことごとく象徴していた。


 そんな生き様が骨の髄にまで染み込んだぼくだったから、その視線に気づいたのだろう。


 殺意――


 それは、ぼくが生まれて初めて感じ取った殺意だった。

 ただただ純粋な捕食者の欲求が放たれて、ぼくの背骨から首筋までをなぞっている。

 誰かが、ぼくに殺意を向けている――


 振り向いた。


 月光が降り注ぐ中に、飼育小屋が在った。その小屋の中に、誰かが立っていた。


「誰――?」


 見えない、分からない。しかし小屋の闇の中には、二つの大きな瞳と、そこから発散される強烈な殺意がある。ぼくは、そのひととき、すべてを忘れて、街灯に惹かれる蛾の如く飼育小屋の前へあゆみを進めていた。


 少女が居た。


 背格好はぼくと同じくらいで、黒いワンピースを着ていた。そして彼女もまた、ぼくと同じように月明かりを厭うのか、飼育小屋の闇と、輪郭までとろけて同化していた。小屋の前に立ち金網に手をかけて凝視しなければ、それが人間なのだと分からない。


 彼女は闇で、闇は彼女だった。


「なにをしているの?」


 おそるおそるぼくが訊ねると、


「ころしにきたの」


 言葉の意味はよく分からなかった。それよりも、銀の笛を奏でるかのような透き通った声に惹かれた。もっと聞いてみたいと思った。


「ころしに……」


 ぼくは言い終えることが出来なかった。

 彼女が、金網の前まで歩んできたからだ。

 鴉の濡れ羽色をした肩までの髪に、月光さえ透かすような白皙はくてつの肌をしていた。ぼくとそう変わらない齢のはずなのに、不釣り合いなほどに臈長ろうたけた美しさがあった。


 世界はふいに、何の前触れもなく、色彩や香りを手に入れたようだった。


 もはやぼくは崩壊星に囚われた光のように、一瞬たりとも彼女から目を逸らすことが出来ない。

 彼女の大きな瞳が曇り――目を伏せた。ぼくもつられて、黒いワンピースを着た彼女の、細長く白い腕に目がいった。

その手首から先は、赤黒く汚れていた。


「え――?」


 どうして、ぼくは気づかなかったのだろう。

 彼女の腕には、小さな兎が抱かれている。

 兎は、ぴくりとも動かない。


「うッ……!?」


 兎の両目は虚ろに黒かった。

 両目が、無かった。

 潰されていたのだ。

 赤い黄身の生卵を鉄箸で乱暴に掻き混ぜたように、元のかたちをなくしてぐずぐずに崩れていた。


「それは――」


 ぼくは思い出す。

 つい数か月前の話だ。


『なあ、見たか?』

 悪友に手を引かれて行った国道沿いの側溝で、その野良犬は死んでいた。元は飼い主がいたらしい、リボンをあしらった首輪をつけた大型犬だった。飢えた目つきで郊外を彷徨さまよい、子供たちから嫌われ恐れられていた。その犬が誰かに目を潰されていたという。そしてヨタヨタと国道を徘徊はいかいした挙句にクルマに轢かれて死んだのだ。


 ぼくは、うじと蠅の集った犬の死体を思い出す。横倒れになった身体、骨が浮き出た腹、長く伸び切った舌、ねじ曲がった首……。


 死の匂い。


「ころしなんて、してはいけないよ」


 自分を殺そうとしていた人間が、何を言っているのだろう。

 まるで説得力がない。

 まるで悪い冗談である。


「きみは、だれ?」


 少女が言った。その細い喉元に隠したとびきり素敵な楽器を鳴らして彼女は言った。


「きみに、わたしを止める権利なんてないよ。命令しないで」


 彼女はそっけない。顔色一つ変えやしない。


「命令じゃないよ。お願いだ。きみには、何もころさないでほしい」

「どうしてそんなことを言うの。きみには何の関係もないのに」


 ああ、そうだね。

 確かにきみの言う通りだ。

 ぼくときみは、たった今出会ったばかりだ。

 ぼくはきみに何かを言う権利なんてないし、きみはぼくの言うことを訊く必要なんて、一つもない。

 これまでどうやって生きていたかも知らないで言えることなんて、お互いに一つもないはずなんだ。

 だけど。


「ねえどうして?」

「それは……」


 ぼくは目を伏せた。

 言えない。

 言えるわけがない。



 きみの姿に見蕩れていたなんて。

 


 こんな寂しげな月光の下ではなくて、

 血にまみれてどこか儚げに佇むきみではなくて、

 もっと明るく輝かしい太陽の下で、

 幸せそうに笑っているきみを見てみたいだなんて……。


 何も言えずに下を向いたまま黙っているぼくを見て、


「きみはおかしなひとだね。わたしと同じくらい、おかしなひとだ」


 やがてきみはそう言って笑った。


「ねえ、そう言われたって、きっとわたしは我慢できないよ。守れない。だから約束できない」

「なら、代わりにぼくをころせばいい」

「え――?」

「ぼくは、十一歳の誕生日である今夜、ひとりで死のうと思っていた。あと、五年で十六歳になる。五年後、十六歳の誕生日に、ぼくはきみにころされる。その時まで、どうか何もころさずに待っていてほしい」


 とっさの言葉だったと思う。

 しかし、口から出まかせではない。

 嘘偽りなどひとかけらもない、本気の言葉だった。


「ふうん……」


 彼女の頬に、たちまち夜桜のような淡い薄紅色がさした。彼女自身が華やぎ、色づいたことが分かった。なぜかぼくは胸が張り裂けそうなほどに悲しい気持ちになった。


 それから彼女は、口づけを待つ乙女のように、しばし目を閉じていたが、


「わかった、約束だよ。だけど、必ずその時まで君には生きていてもらうから。嘘ついちゃだめよ。ぜったいにね」


 そう言って笑った。

 時は凍り付いた。

 でも、


「ああ、約束する。だから君も、その時まで絶対に――」


 もう、なにもころさないでくれ。

 時限爆弾のような約束は、そうしてぼくたちの間に生まれた。

 少年は少女が×××××ために、命を使うことにした。


 そのはずだった。

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