3-5
N山の登山口に着いた時には、既に西日になっていた。相変わらず、周囲に人気はない。
ぼくは近くのコンビニに立ち寄ることにした。思えば、昼から何も食べていない。単独行になるし、何が起こるかわからない。少し腹に蓄えておいて得することはあれど損はないだろう。
ぼくは真夏というのにあつあつの肉まんを購入し、店内のイートインで指先と唇を軽く火傷させながら無心で平らげた。ミネラルウォーターと携帯用のポケット羊羹を買い、出発した。
前回は、家までの道筋を知らず、久遠の歩幅に合わせていたこともあったから、けっこうな時間がかかったが、今回は一時間たらずで到着した。
あの日、この建物を出る時に覚えた悪寒や怖気を、今はもう感じなかった。
ぼくは足音に細心の注意を払いながら、侵入する。
目指したのは、一階にある洋間だった。
あの部屋に入った時、老婆は現れた――
辿り着き、ぼくは洋間を見渡しながら思う。まだ、割れた窓の外から差す日差しが残っている。携帯ライトは点ければ、どこからともなくあの老婆が羽虫のように集りに来る気がした。
この部屋には――人の出入りがある。
部屋によって老朽化や崩壊の程度は異なっていたが、この洋間は、人の手が入っているように思えた。他の部屋と比べ瓦礫は少なく、部屋の端に避けられている中で、足跡の数が多い。
――この部屋には何かある。
息を殺しつつ、部屋の中をくまなく見回っていく――
そして、ようやくぼくは気づいた。
鏡。
部屋の片隅に立てられた大きな姿見がある。
前回、この部屋に入った時、僕たちはそこに映った自分たちの影に怯えたのだった。
しかし。
恐怖に駆られたあまり、あの時は気づかなかったが、この姿見は綺麗すぎる。
誰かが映るほどに綺麗なのだ。
もし、この建物と同程度に古ければ、全面に罅が入っていたり、割れていたり、曇っていたり、そこまでと言わずとも、もっと埃を被っていてもおかしくはないのではないか。
――新しい?
この廃墟には似つかわしくない。
直感的にそう思った。
ぼくはそっと姿見に近づいた――ものの試しに押してみるとそれは見た目の重厚さとは裏腹にひどく軽く横に動いた。
姿見をどけると、壁がなかった。
隠し扉――
そういうことか。
扉は小さい。ぼくは頭を下げ、腰を屈めて潜り抜けた。
扉の先も暗い。窓も見えない。
ぼくは携帯ライトを点けた。
そこは――
小部屋だった。広さは四畳半程度だろうか。この人食い人形の館のほかの部屋は、いずれも最低でも十畳以上はあったように思うから、いっそう狭苦しさが際立っている。天井は、ぼくが立ち上がった状態で、頭が触れそうになる程度に低い。
そして――
人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形、人形――
無数の日本人形が、在った。
「うッ……」
人形たちは、部屋の床が見えないくらいにびっしりと並んでいる。その黒い髪が視界を埋め尽くしている。ライトが反射して、こちらを見る何千もの瞳が生きてるように瞬いている。
そしてそのどれもが、ひどく古びて、汚れていた。
ぼくは思わず口を押さえた。予感はしていた。だからこそ口を押さえるだけで済んだ。そうでなければ、吐いてもおかしくはない。
「久遠がいなくて良かった……」
気丈な性格の彼女も、これを見れば少なからずショックを受けるだろうことは想像に難くない。
「しかし、こういうからくりか……」
恐らく位置的にこの隠し部屋は、館の中心にあたるだろう。この館は、胎内に莫大な数の人形を抱え込んでいるということだ。人形の館というのも納得だが、しかし、これだけでは人食い人形の館というよりも、人形食らいの館と言った方がしっくりきそうだ。
ここに人形が集められた
「だが今は……」
ぼくはポケットの中の白い粉末を思いだす。
これによく似た粉末を、ぼくはある邪悪な山小屋で見たことがあった。
「……よし」
ぼくは意を決して、地に膝をつけ、床に並ぶ人形の一つを手に取った。ペンライトを口に銜え、両手で人形を抱き上げ、検める。襤褸のような服を脱がせ、首をもぎ取る。
「違う……」
次。
違う。
次、次、次――
ぼくは、ただひたすらに無心で、その単純で醜悪な作業を繰り返した。何かを考え始めれば、この現実を認識しようとすれば、頭がおかしくなるような気がした。
「はっ……」笑いがこみあげてくる。「ぼくの頭がおかしいなんて、とっくの昔から……」
自明のことだ。
五年前から。いや、きっと――もっと前から。おそらくそう、生まれた時から。
いつの間にかぼくは、部屋の中心に居た。
ふと振り返れば、人形たちの胴体と首が至る所に転がっている。
屍者の山だ。
ぼくはなぜか、そこにいないはずの綾乃先輩の姿を幻視した。
たとえば、坂井久遠や、あるいは高屋敷華ならば、バラバラ死体にまみれたこのぼくを見たら、唖然としてその身体を凍りつかせることだろう。
けれど、彼女なら。
柿原綾乃ならば、一切の躊躇もなく、満面の笑みを湛えて、ぼくを抱きしめてくれる気がした。そしてもしも立場が逆転したとしても、ぼくもまた彼女のことを受け入れるだろう。
やがて――
「これは……」
ぼくは一つの人形を抱き上げた。件の人形と似ていた。鎖骨のところに、黒く滲むような刃物傷があった。
恐る恐る、服を脱がせ、首を外すと――
「あった」
白い粉末の入った小さなビニール袋が出てきた。
「やっぱり……」ぼくは確信する。「この場所は――」
その瞬間だった。
尻ポケットに入っていた携帯が震えはじめる。着信している。闇の中、手探りで携帯をつかむと、左耳に当てる。銜えていたペンライトを右手に持ちかえる。
「もしもし?」
「ゆう? 今どこにいるの?」
「その声、久遠か? 何かあったのか」
久遠の、夏の終わりの風鈴のような声を聞いた時、ぼくは意外さを感じていた。今のぼくに電話してくるのは、なぜか綾乃先輩であるような気がしていたのだ。そういえば、最近はめっきりと先輩からの連絡が少ない。いっときは毎晩毎晩、ベッドのサイドテーブルから着信音が鳴りやまないくらいだったのだが。
「……ゆう、聞いてる?」
「ああ、聞いてるよ」久遠の声が不審げに響いてきた。どうやらぼくは上の空だったらしい。「それで、急にどうしたんだ」
「ぜんぜん聞いてないじゃない」久遠のため息が電話越しに聞こえてきた。「だから、胸騒ぎがしたから、かけたって言ってるの」
「胸騒ぎ、ね。久遠の胸騒ぎは当たるよなあ」
「なに
「夜?」
ぼくは携帯を耳から離し、ディスプレイを確認した。とうに午後九時を回っていた。まるで気づかなかった。先ほど、洋間で隠し扉を発見したときは、まだ夕方だったはずだ。ぼくはそれほどまでに、人形解体という悪趣味な作業に没頭していたらしい。
「あんたね……。もう山を下りられないんじゃないの? どうするつもりなの?」
何とかなるさ、とぼくは笑いながら、
「やっと色々なことが分かってね。もう帰るよ」
「なによ、笑ってる場合じゃないでしょ。もう」
久遠は不機嫌そうに言った。
「……久遠の声を聞いたら、安心したよ。ありがとう」
それは本心だった。久遠の声を聞いた途端に、ぼくは我に返った。ぼくが立っている場所は屍者の山ではないし、バラバラ死体の夜に一人きりでもなかった。
ぼくは、携帯を耳に当てたまま、再び身を屈めて、隠し小部屋を出て、洋間に戻ってきた。
「……なに言ってんのよ、ゆうは、どこまでもゆうなんだから」久遠の声が小さくなる。「何でもいいから、早く帰ってきなさいよ」
「ああ。必ずかえっ……」
そう、言いかけた時だった。
「ねえ、なんかそっちから女の人の呻き声がするんだけど……」
久遠の声は緊張感を帯びていた。
「え? ぼくには聞こえな――」
いや――聞こえる。
ウウウウウ……。
壁の向こう側――この洋間の近くの廊下からだ。
ウウウウウウウウウウ……。
部屋の外に、誰かがいる。
ぼくはペンライトを消した。
「また後で連絡する」
「ゆう? ちょっと!? 待ってよ、ゆう!」
通話を切り、ぼくは身構えた。唾と一緒に恐怖を飲み込んだ。覚悟を決めた。
ウウウウウウウウウウ……!
女の呻き声だと? 久遠はよく聞き取れたものだ。そう言われなければ、獣の唸り声にしか思えない。
洋間の入口に、上下左右に揺れる黒い影が現れた。
「ウアアアアアアアーッ!」
影が何かを振り回しながら突進してきた。
「くッ!?」
ぼくはとっさに右に飛び込み、床に転がる。腰と背中を床に打ち付ける。この洋間が、他の部屋のように瓦礫だらけだったら、ただでは済まなかっただろう。
肉体の痛みを無視して起き上がり、ぼくは即座に態勢を整えた。
「アアアアアアアアッッ!」
黒い獣は絶叫していた。しかし、こちらに向かってはこない。ぼくはペンライトで、獣がいる方を照らした。
老婆だった。のたうち回るように床に転がっている。どうやら転倒したらしい。傍に錆びた包丁が落ちていた。
――あれを振り回していたのか。
あの勢いで突進され、刺されていたら助からなかっただろう。足元から大量の蛆虫が這いあがってくるような悪寒がした。
「ウッ、グァアアアアアッ!」
――いや、老婆ではない。
ライトに当たる彼女を見て、ぼくは改めて気づいた。老婆ではない。身なりが汚らしく、手足は枯れ木のようで、背は折れた針金を差し込まれたかのようにひん曲がっていて、人間か獣かの判別もつき難いが、頭はまだらの金髪で、老婆という齢ではなさそうだ。その顔を、両手で覆っている。
ライトが眩しいのか。
「アアアアアアッ! 返せッ、返ぜッ!」
違う、目が眩んでいるのではない――
ぼくは気づいた。
彼女の両目は潰されていた。両目の周りが、赤黒く凝固し始めた血で染まっていた。
「返ぜーッ! 目を返ぜッ!」
「ううッ……」ぼくは口を押さえた。「酷すぎる……」
「ウウーッ、ウウッ……」
女は倒れたまま息を喘がせながら、地面を忌々しそうに殴ったり、両脚を幼児のように振り回している。まるで弱った野生動物のすがたそのものだった。
助けるべきか――?
ぼくは彼女に手を伸ばしかけた。
だが、すぐに恐ろしい考えが脳裏をもたげる。
あの両目の傷からはまだ血が流れている。そして、女にはこちらの声を察知して、襲い掛かってくるほどの気力体力がまだ残っている。
彼女の目が潰されてから、それほど時間は経っていない。
それは、つまり。
彼女を傷つけた何者かが、まだ近くにいるのではないか――?
「くッ……」
ぼくは駆けだしていた。無我夢中で館の玄関を目指す。
いや、だめだ。玄関に行けば、その誰かが待ち構えているかもしれない。
ぼくは玄関とは逆の方向に進んだ。奥の部屋へ続く扉を開け、窓から屋外へ飛び出した。
腰ほどの背丈のある草むらをかき分けていくと、トタン板の粗末な
「なんだ、ここは……?」
窓があった箇所は段ボールで塞がれている。ぼくは開きかけているドアから中を覗いた。荒廃しきっているが、人の住む気配が残っていた。
「そういうことか……」
よくわかった。とにもかくにも、この呪われた館に長居は無用だ。ぼくは掘立小屋の裏を抜け、道なき道を走り出す。
どれだけ走っただろう。
沢の横のぬかるみを踏み越え、木立の間を
気づけば、ぼくは開けた場所に出ていた。
「ここは……」
ぼくは、目の前の山小屋に見覚えがあった。いや、決して忘れることのできない場所である。この何の変哲もない物置小屋の地下に、
「そうか、この辺りは案外近かったんだな……」
ぼくは苦々し気に笑っていたと思う。
もはや、笑うしかなかった。
N山が魔窟であることは今回の件でほとほと理解した。金輪際、N山に近づくのは止めようと心に誓った。
ここまで来れば、帰りの道に迷うことはない。ぼくはふもとに向かって歩き出す。以前は綾乃先輩のバイクでひとっ走りに下山したが、今回は徒歩だ。どれだけ時間がかかるかはまるで見当もつかないが、生きて街に帰ることが出来るのなら、文句を言うのは罰が当たろう。
ふと携帯を見ると、着信履歴がディスプレイを埋め尽くしていた。すべて久遠からだった。ぼくは画面に表示された履歴の一件を指先でタッチしてリダイヤルする。
「もしもし、久遠か?」
「ゆう!? ゆうなの!?」久遠らしからぬ冷静さを欠いた金切り声だった。「馬鹿! 大馬鹿! ゆうのゆうは悠長のゆうなの!? 優柔不断のゆうなの!? あんたってもういったい何なのよ!」
「勇猛果敢のゆうか、勇気凛々のゆうかな……」
「ふざけないで! 私、もうすぐで警察に通報しようと思ってたのよ? 本当にもう、ゆうは……」
いつもなら、死ねと罵られるところだっただろう。だが、久遠の声は、だんだんと小さくなり、やがてすすり泣きに変わった。
「久遠、心配かけて、本当にごめん」
「ばかぁ……。ゆうに何かあったら、私……」
ぼくは、立ち入り禁止と書かれた札が提げられた黄色と黒の虎ロープをくぐり越した。
「……いろいろなことが分かったんだ。行っただけの価値は得られた」
「……いろいろなことって?」
「ぼくと久遠だけの秘密にしてくれるか?」
そう言うと、しばらくの沈黙があったが、
「……いいよ。私が泣いたのも内緒にしてくれるなら」
「え?」
「なんでもないわよ!」久遠は、直前までのしおらしい態度がすべて嘘だったように、「もったいぶってないでさっさと話しなさいよ!」
「そっちの方が久遠らしくて、ぼくは好きだな」
「はあ? そんなこと、今聞いてないんだけど!?」
久遠は怒り、ぼくは笑った。
真っ暗闇の山道の中をひとり行くぼくだが、なんだか穏やかな日常に戻ってきたような気がした。
それは、五年以上前に喪った、いや、元より一度も手に入れたことがないかもしれない日常だった。
「……あの白い粉末は違法な薬物だ。そして、あの人食い人形の館は薬物の受け渡し場所になっている」
「それ、本気で言ってるの? 白い粉末って、あんたが持ってっちゃったあのビニール袋のことでしょ? 確かに、お人形さんの中から出てきたのは妙だと思うけどね。でも考えが飛躍しすぎなんじゃない? そもそも、ゆう、どうしてあんたは、それが薬物か否かを判断できたのよ?」
「う……」
さすがに実物を見たことがあるとは言い難い。
「人食い人形の館で隠し部屋を見つけたんだ。そこには大量の日本人形が置いてあった。そしてその中に、久遠に渡した人形と同じように胴体の中に粉末が仕込まれていた」
「ふうん。言いたいことは分かって来たけど、なんでその館は受け渡し場所になったの? だって山奥よ? 不便じゃない?」
「不便とは言い切れない。ふもとまではクルマで簡単に来られるし、山道も、ルートさえ把握していれば、入口から一時間もかからずに館まで着く。N山に登山客は皆無だし、館は心霊スポットとして地元には認識されていないくらいにマイナーだ。条件としては都合が良い。ああ、それから、ぼくたちが遭遇した老婆がいただろう? また彼女に出会ったよ」
「え!? 大丈夫だったの? ゆう、襲われたりしなかった? もしかして、さっき電話を切ったのはそのせい?」
「ああ……今はこうして逃げ出してこられた。彼女を近くで見る機会があったんだけど、思ったよりもずっと若かった。老婆ではない。彼女は薬物中毒だと思う」
「その人、どうしてそこにいるの?」
「館の裏側に荒れた小屋があって、誰かが住んでいる形跡があった。彼女はそこに住んで、見張りをしているんだと思う。館に招かれざる客が来た際に追い返す役目を負っている」
「役目を負うって?」
「彼女自身にも薬物が必要だが、金が用立てできなかった。あるいはできなくなった。だから、その対価として、館の見張りをやらされているんじゃないか。そうすると、阿久津の兄が見た女の幽霊は、要は彼女だったんじゃないかという想像も働く」
「あの人を幽霊と見間違えたってこと? でも、なんでその人が阿久津さんのお兄さんの近くに現れたの? 館で見張りするのが仕事なんでしょう?」
「彼が、館にとって招かれざる客であり、館を荒らした挙句、あろうことか商品を持ち逃げしてしまったから、付け狙われることになったんだろう。阿久津の家に不法侵入して、人形を奪い返すのはリスクが高いから、阿久津が処分するまで尾行をしていたんじゃないか」
「……俄かには信じられないんだけど」久遠の声は、室内でふいに害虫を見つけてしまった時のような露骨な嫌悪感を含んでいた。「もし、ゆうの言う通りだとしたら、犯罪沙汰にも程があるわよね。山奥で、違法な薬物の取引って……いったい誰が、何のために、この街でそんなことをしてるの?」
「それは……ぼくにも分からない」
今は、まだ。
「なんだか私、怖い。ねえゆう、警察に行った方がいいんじゃない? これ、もう私たちの手に負える話じゃなくなってきてると思う」
「……久遠の言う通りだね。大丈夫、警察にはぼくが行くよ」ぼくは嘘を吐いた。「これ以上、久遠には迷惑はかけない」
「迷惑とか、そういうことを言ってるんじゃなくて……私は、ゆうが危ない目に遭うのが、」
ぼくは久遠の声を遮るように、
「久遠。一つだけお願いしたいんだ」
「……なに?」
「最初に言ったけれど、改めて、この話は二人だけの秘密にしてほしい」
「そんなこと」久遠は何をいまさらと言わんばかりに、「分かってるわよ。というか、こんな話、誰かにしたら頭がおかしいんじゃないかと思われると思う。そのくらい突拍子もないし、ゆうに言われなきゃ、私も信じないよ」
「……ありがとう」
夜空を見上げる。あいにくなことに、今夜は星の少ない夜空で、館にいた時は見えていた月さえも雲間に隠れてかすんでいた。たった一つだけ、空の低いところに赤く輝く星が佇んでいる。アンタレスだ。他には何も見えないが、その星がそこにあるだけで、そちらが南であることが分かった。
「ああ、そうか……」
ぼくには、今ようやく気付いたことがある。
ぼくが、今まで曲がりなりにも人間の道を踏み外さずに歩いて来られたのは。
久遠がいたからだ――
「ゆう、何か言った?」
「……また連絡する。それじゃあ、今夜はおやすみ」
ぼくは電話を切った。
下り続けてきた轍だけの山道は、舗装路と合流した。携帯から耳を離すと、にわかに遠くから国道を行き交うクルマの音が聞こえ始めた。
「嘘吐きは泥棒の始まりというけれど……」
では逆に、ぼくのような人間が急に真実を話し始めたら、いったい何が始まるのだろう。
あるいは、何かが終わるのだろうか?
ぼくは、久遠に伝えなかったことのうちの一つを思い出す。
「あの、目潰し……」
女の両目は潰されていた。苦悶の表情を浮かべ、叫びながら、地べたをのたうち回る女の姿を今も瞼の裏に焼き付いていた。
ぼくは、その手口を以前にも見たことがあるような気がした。一度だけでない、もっとずっと前――そう、彼女と出会った五年前の夜もそうだった。
「確かに、目潰しだけで済ませるならば殺人には至らない……」
あれがもし、ぼくの脳裏で像を結べず揺らめき続けている彼女の仕業だとすれば、彼女は今もぼくとの約束を守っていることになる。
「本当に、そうなのか?」
山道が終わり、国道に至った。
しばらく行くと、Y字路が現れた。
頭上の青い道路標識を見る。右手は街へと続く幹線道路だ。続く道も街灯があり明るい。左手は――
「さて……」
ぼくは、どちらに行こうか。
《第3話 人食い人形の館 了》
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