3-3

 翌日――


 ぼくと久遠は、昼前にN山の入口に集合した。


 在来線の終点から、バスに乗ってやってきた。N山は、山頂付近が樹林帯となっており展望が悪いことから登山客などにはからっきし人気が無いという。そんな評判のとおり、周囲にはまるで人影が無い。


 幸いなことに天候は良好で、からっと晴れた日差しに少し風があって心地よい。

 ふもとのコンビニでペットボトルの水を買い、ぼくたちは上り始めた。


 最初のうちこそ、車も入れるような舗装路だったが、十分も経つと獣道に変わった。昨晩、阿久津から聞いた話によれば、途中で山頂を目指すルートから外れ、さらに道なき道を行く必要があるらしい。


「そういえば久遠って、ストーカーに悩まされたりしたことある?」

「なによ、出し抜けに。妙な質問ね」

「最近、身近にストーカーで悩まされていたひとがいてね。気になっただけさ」


 益体もなければ他意もない質問だった。

 二人が野草や砂利を踏みしめる足音と、遠くで野鳥が鳴く声以外に何も聞こえないこの情景に飽いた、それを紛らわそうとしただけである。


「あんた、それって身近な人の話じゃなくて、自分が経験あるんじゃないの?」


 久遠は鼻で笑って、


「電車で痴漢に遭ったことは一度だけあるけど。持っていたホッチキスで指を綴じてやったら、それからは二度とないわ」


 さすがの久遠さんだ。

 一切の容赦がない。

 しかしなぜホッチキスを持っていたのだろう?

 そんなぼくの不思議そうな顔いろを見て察したのか、久遠は、


「持ってちゃいけないの?」

「いえ、そんなことは断じてございません……」

「なにいきなり敬語になってんのよ。というか、私としては、ペンチじゃなかっただけ感謝してほしいと思ってるくらいなのだけど」


 たとえば、もしペンチを持っていたら、どうなっていたんですか――

 そこは訊ねることができなかった。


 山道が険しさを増した。

 途中、阿久津に教わったとおりに、じれた古木の傍から下っていく。山頂へ向かうルートから逸れた。山あいの沢を目指すような路程になる。


「……昔もさ、こんな風に二人で裏山に上ったことがあったよね」


 これまた出し抜けに久遠が言った。


「そうだったかもね……」


 曖昧に答えたものの、実はぼくもよく覚えている。

 あれは、確か小学生の頃のことだ。久遠が、坂井神社の神主であるお父さんにこっぴどく叱られたことに腹を立て、近所の裏山に籠城ろうじょうしたのだ。


「あの時、ゆうが迎えに来てくれたよね」


 坂井神社のご息女が行方知れずとなり、大人たちは騒然としていたが、ぼくには久遠がいる場所が分かった。ありったけのお菓子をリュックに詰めて、裏山に向かうと、中腹辺りで倒木の上に膝を抱えて座っている久遠がいた。ぐずつく久遠を引っ張って、そのまま山頂に上ると、真夜中だった。そこから、ぼくたちの住む小さな街を一望できた。


「ゆうが持ってきてくれた板チョコを食べながら、夜の街の灯りを眺めていると、自分の存在とか、怒られたこととかが全部小さなことのように思えてきたの。あれは魔法みたいだったな……」


 そうして元気になった久遠は、けろっとした顔で無事に下山し、親元に帰っていった。


 ちなみにぼくは、途中で久遠とはぐれ、迷子になった。


 あの頃は、世界の隅々まで探したとしても、ぼくの命を心配する物好きはいなかったし、久遠は久遠で帰宅して早々親御さんに幽閉ゆうへいされたというから、ぼくのことを考える余裕もなかったのだろう。しかしてぼくはそのまま遭難を楽しみながら三昼夜を星空の下で過ごした覚えがある。


「まあ、久遠にはいい思い出だから、それで万事よしかな……」


 はてさて――果たしてぼくは今回も坂井家のご令嬢を無事に家まで送り届けることはできるのだろうか。

 昔話に造花ぞうかを咲かせていると、やがてぼくたちの目の前に朽ち果てた洋館が姿を現した。


「これが人食い人形の館か……」


 そんな物騒な名前さえつけられていなければ、かんさびた印象さえ覚える幽艶ゆうえんな廃墟だった。時日に優しくさいなまれしっとりと赤茶けた白壁に、青々とした蔓草が表皮に透ける血脈のように巻きついている。建物の周囲を幹の太い樹木に覆われているため全貌は分からないが二階建てのようだ。


 入口まで数段の階段がある。玄関に扉はない。その先には、今が昼間とは思えないほど濃密で深い闇が充満していた。


「久遠、足元に気を付けて」


 久遠は僕の後ろを黙ったままついてくる。

 いざ中に入りライトを照らすと、ぼくは入る直前にこの建物に抱いていた優美な印象をすべて否定することになった。


 玄関を入ると広間になっているが――割れた窓硝子や瓦礫が床に散乱している。壁紙が剥がれ落ちている。強い異臭がするのは、動物が寝床にしているのか、あるいは何らかのガスが自然発生し滞留しているのか。埃とかびの漂う空気の中に糞尿やえた匂いが入り混じり、執拗にぼくの喉と肺を犯そうとしてきた。


「ゆう、ここって……」

「ああ。あまり長居をすべきではなさそうだ……」


 ぼくたちは足元を確認しつつ慎重に奥へと進んだ。

 よくもまあ、こんな終末じみた場所を掘り起こして肝試しなど試みたものだ。この建物の何処かに煉獄れんごくへ続く門が隠れていたとしても、ぼくは決して驚きはしないだろう。


 一階には広間に続いて洋風の客間や和室、台所に風呂トイレがあった。一歩進むたびに、埃が舞い上がり、床が軋んだ音を立てる。


 その時だった。

 客間の奥の暗がりで、何か黒いものが動いた――ように見えた。


「きゃッ――」


 後ろにいる久遠が小さな悲鳴を上げた。


「なんだ――?」


 まさか――

 幽霊が出たというのだろうか。

 こんな真っ昼間から、せっかちな幽霊もいたものだが――


「ゆうッ、そ、そっち、今、黒い影みたいなのがッ……」


 久遠がぼくの背にしがみついて言った。彼女は自分の背をぼくの背にぎゅうっと押し付けている。いや、それはありえない。背中から手は生えない。つまり、久遠が押し付けているのは、彼女の細い腰や、あるいはお腹や、それ以外のなだらかな曲線を描く身体の一部なのだろうが、ぼくに後ろを振り向く余裕はなく確認の余地もない。しかし、幽霊が出たせいなのか、久遠に抱き着かれたせいなのか、まるで判然としないが、ぼくの心臓までもがうるさく鳴り始めている。


 そうだ――こんな時は、往古来今おうこらいこん、熱心に念仏を唱えるに限るのだろう。


 一心不乱に、悪霊退散を願って――


「コレハウワキデハナイコレハウワキデハナイコレハウワキデハナイ……」

「あんた、急になに意味不明なことを言ってんの?」


 間違えた。

 最近唱えたことのある文句がつい口から出てしまった。


 だが。

 気づけば、影は消えていた。


「えっ、今のが効いた……?」

「そんなわけないでしょ」


 誰がどう聞いても念仏ではなく邪念だったが、念ずれば通ずともいうし、念の文字は共通しているので案外効果があったのかもしれない。もちろん、単に見失っただけかもしれない。だが、この部屋にはぼくたちの立っている扉以外に、出入り口がないので、それは考えにくかった。


 気を取り直して、ぼくたちは二階に移動した。がたのきている階段を上っていくと、四つの洋間があった。部屋の様子はどこも一階と変わらず、廃屋そのものだった。


 そうして、建物の内部をひと通り見回ったものの、


「人形なんて、どこにも見当たらないね……」

「どこが、『人食い人形の館』なんだ……?」


 そうなのだ。

 この廃洋館が、屍者ししゃの王国から現世に引っ越してきたかのような、不気味で奇々怪々ききかいかいな構築物であることは思い知らされたが、その名前の由来である『人形』はついぞ見つけることが出来なかった。


「……一階の洋間に戻ろう」

「えっ? ゆう、本気で言ってるの」


 久遠はかなり難色を示したが、この建物の中で調べきっていないのは、黒い影を見たあの洋間だけだ。ぼくたちは一階に下りて、暗い洋間へと入った。携帯のライトで部屋の中を照らすと、古びた背の低い木製のテーブルや、ソファなどの応接セットが見えた。何の変哲もない洋風の応接室だ。部屋の奥に、大きな姿見があった。鏡面にぼくたちの姿が映っていた。


「もしかして、さっきの影って、この姿見にぼくたちが映っただけじゃないか?」


 ぼくは姿見を照らしながら言った。明るい部屋の入口から射した光が、部屋の最奥にあるこの姿見に反射する。入口の前に人が立つと、挙動に応じて光の当たる範囲が変わり、影が動いているかのように錯覚したのではないか。


「幽霊の正体見たり枯れ尾花ってやつかな……」


 おどろおどろしい心霊スポットといっても、たいていはこんなからくりなのかもしれない。


「それにしても、案外、久遠も怖がりなんだな」

「は、はあ? そんなことないけど」


 ぼくが笑いながら、久遠の方を振りむいた時だった。

 むすっとした顔の久遠の背後に――見知らぬ女が立っていた。


「なッ――」


 ぼくはとっさに久遠の腕を取り、その細い身体を引き寄せた。


「ちょっとゆう、急になにを……っ」


 状況を理解していない久遠は、しかし、何ら抵抗をしないままぼくの腕の中に収まった。ぼくは黙ったまま彼女を自分の背後にやり――女と向き合った。


 背は低い。竹箒のような白髪交じりの髪に、襤褸を纏ったかのような身なり。瞳は虚ろ、顔には皺と紙魚しみが無数に浮いていた。


 老婆――である。


「――チッ、ガキが……」


 しわがれた声だった。


「ビビらせんじゃないよ、さっさと消えな」


 彼女はうっそりと呟いただけだ。だが、奇妙な凄みがあり、ぼくはまるで野生動物と相対している時のような緊張を感じた。


「クソがよ……」


 老婆は死んだ魚のような濁った目で、しばらくぼくたちの全身を値踏みするように眺めていたが、やがてぶつぶつと悪態をつきながら洋間を出て行った。


 ぼくたちが突然の出来事から我に返ったのは、彼女の姿が視界から消えてからのことだった。


「待っ……!」


 手を伸ばし、部屋の外に出た時には、老婆の姿は跡形もなく消えていた。床には瓦礫が散逸し、歩き進むのもままならないはずなのに、足音すらろくに聞こえなかった。


 その時になって、ぼくはようやく世の中には足のある幽霊がいる可能性に思い至った。


 *


 結局、名前の由来を知らないままに、ぼくたちはその異界の建築物を後にした。断念した理由はいくつかある。外の天候が悪化して雨の気配がしてきたこと、だんだんと夜が近づいてきたこと、そして――老婆と遭遇して以来、誰かに見られているような視線と悪寒が消えないことだった。


 ぼくたちは昼に歩いてきた山道を黙々と辿った。獣道を踏破してきたことによる足腰の疲れもあったし、霧雨のように身体にまとわりつく妙な不気味さも感じていた。とにかく今は、早く人里の灯りが見たかった。


「ねえ……ゆう」


 ふいに背後から久遠が言った。


「……さっき、私のこと、守ろうとしてくれたよね?」


 まるで自信なさげで、ぼくの知る久遠にはおよそ似つかわしくないしおらしい声だった。


「……ありがとね」


 たぶんおそらくメイビー十中八九、久遠はそう言ったと思うのだが、はっきりと聞き取れず、ぼくがいぶかし気に振り返ると彼女はそっぽを向いていた。


「何? なんか文句あるの?」


 久遠はなぜか少し怒っていた。とてもじゃないが、今、お礼を言ったひとの態度ではない。最後のお礼は、きっとぼくの願望込みの聞き間違いだったのだろう。


 ぼくは気を取り直して、くたびれきった両脚を再び前に動かしながら、


「久遠はさ、さっきのおばあさんを見て、どう思った?」

「え? ああ……ゆうも、あのひとは幽霊じゃないと思うんだ?」

「最初は驚いたし、部屋を出たら姿が消えていた時には、まさかと思ったけどね。あの廃墟に住み着いているのかもしれない」

「勝手に住んでいるのだとしても、自分が寝泊りしているところが心霊スポットになっているのは、少しかわいそうかもしれないわね」

「ほとんど知られていないスポットらしいから、訪ねてくる人はゼロに近いだろうけどね。それにしても、なぜ人食い人形の館なのかは、分からなかったな……」


 無事に下山し、ふもとに着くと夜になっていた。

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