2-12

 翌日――夏休み初日。


 ぼくは、午後一時からティーカップ・ゴーストのバイトに入るために、駅のホームに降り立ったところだった。


 世界がだっている。街中のビルや信号機さえもバターのように溶けだしてしまうのではないかと思えるほど暑い夏の日だった。家で見ていた朝のテレビは、猛暑の襲来を報道していた。今日はアイスコーヒーのオーダーが殺到することだろう。


「せっかく、ラテアートの作り方を覚えたんだけど……」


 誰かに披露する機会は当分先のことになりそうだ。


「練習に付き合ってくれる相手も、もういないしな」


 あの事件以後、静人さんが来店することはなかった。


 綾乃先輩に突き付けられた事実は受け止めているものの、ぼくの中の静人さんは、未だにあの聖人君子の静人さんのままだった。


 ――現実の捉え方として、果たしてそれは正しいのか?


もしもそう誰かに問われれば、ぼくは自信を持って頷くことはできないかもしれない。


 けれど、今回も一連の事件に対して、ぼくはそう対応しようと強く決心している。


 だからこそ。

 ぼくは、ひとり寂しそうに佇んでいる彼女に声をかけることが出来たのだから。


「華ちゃん!」


 ティーカップ・ゴーストは、郊外の住宅街の中に建つ喫茶店だが、道路を挟んだ向かいが小さな公園になっている。

 華ちゃんは、その公園の入り口近くの木陰から、ティーカップ・ゴーストを見つめていた。


「……ゆうちゃん?」


 ベージュのストローハットに、白と黄色のボーダーのトップスと黒のサロペットを合わせている。麦わら帽子の大きなつばに隠れているせいで、表情まではうかがえない。

 この炎天下で、彼女の姿は陽炎か蜃気楼のように思えるほど、おぼろげではかなく見えた。


「そんなところに突っ立っちゃって、どうしたんですか。暑いでしょう、早く店内に入りましょうよ」

「ううん、ゆうちゃん、違うの。私……」華ちゃんの小さな声は、蝉の鳴き声にかき消されてしまいそうだ。「ティーカップ・ゴーストを辞めようと思って、それを伝えに来たの」


 華ちゃんは俯いていた。


 ぼくは、華ちゃんの言葉に思わず顔をゆがめそうになったが、気取られぬように、平静を装う。

 それから努めて、笑って言った。


「何を言ってるんですか。そんなの、ぼくが許しません」

「……え?」


 華ちゃんがおそるおそる顔を上げた。

「店長もぼくもみんなも、ずっと華ちゃんが元気になって戻ってきてくれるのを待っていたんですから。ほら、早く行きましょう!」


 言って、彼女の小さな右手を取った。

 彼女と初めて出会った時に、同じように彼女の手を握ったことがあった。

 あの日は、彼女の方から差し出された手だったが――


「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、ゆうちゃん」


 ぼくは華ちゃんの手を引いて、歩き出す。


 彼女は、頭から落ちそうになったストローハットを左手で押さえている。


「待ちません。ぼくは華ちゃんのこと、ずっと心配してたんですよ」

「ゆうちゃん……」


 華ちゃんの声は涙ぐんでいた。


 ぼくたちはカルガモの親子のように道路をゆっくりと渡っていく。手を引かれてぼくの後ろを歩く華ちゃんの嗚咽おえつが聞こえてくる。


 渡りきって、振り返ってみると、華ちゃんは左手で目元を押さえていた。ストローハットは道路の途中に落ちていた。


「ゆうちゃん、本当に私のお母さんみたいですう……」


 もはや号泣だった。人目をはばかることもなく、華ちゃんは幼児のように顔をぐずぐずにしながら泣いている。


「せめてお父さんにしてくれませんかね……」


 ぼくは持っていたハンカチで華ちゃんの顔を拭った。ぼくにはきょうだいがいないが、もしも妹がいたらこんな感じなのかと思った。

 路上に落ちたストローハットを拾って、彼女の小さな頭に被せながら、


「そもそも華ちゃんは、ティーカップ・ゴーストのマスコットなんだから、勝手に辞めるなんて、許されません」

「ま、ますこっとぉ? せめて看板娘とか、もっと良い言い方にしてくださいよう」


 華ちゃんはむくれた顔をして、それから笑った。

 つられるようにして、ぼくも笑う。


 そうして。

 華ちゃんは店長にこれまでのことを謝ると、ティーカップ・ゴーストに復帰することになった。


 *


 ぼくは久方ぶりに、こころの身軽さとたましいの安らかさを感じながら、更衣室に入った。制服の黒エプロンを身につけつつ、気が付けば口笛などを吹いている自分の姿に気づく。


 ――今度の悪夢は、いつもより少しだけ寝ざめがよさそうだ。


 そんなことを思いつつ、エプロンの紐を後ろ手で結んでいると、携帯に一通の着信があった。

 手に取り、ディスプレイを見る。


 そこからは自分がどんな顔をしていたかよく分からない。

 写っていたのは、見知らぬ街中で車椅子を必死に動かす青年の後ろ姿だった。


『タカシマヤさんは元気だった? ところで静人さんだっけ? 彼、本当に歩けない身体にされちゃったみたいだね(笑)』


 ぼくは、ディスプレイをタップして静かに文章を打ち込んでいく。

 あの日、あの古民家の闇の奥に進まなかったことに深く安堵している自分がいた。


『ぼくの知らない方ですね』


 返信を済ませると、ぼくはエプロン紐を締め直しキッチンへと向かって行った。


 《第2話 狩られる獣 了》

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