2-11

 終業式の日に、ぼくは綾乃先輩と会った。


 場所は、高校の図書室だった。

 学期末テストから解放された生徒たちが、やれ海だ山だ川だ花火だライブだ旅行だ合宿だと笑い合いながら出て行った後の学校は、平時の喧騒けんそうが嘘のように閑散かんさんとしている。そんな本日の校内において、図書室という空間は、生きとし生けるものすべてが死に絶えた海のように静かだった。


 ぼくと綾乃先輩以外には、赤い眼鏡をかけた図書委員の女子生徒がカウンターに座るばかりで、他は誰もいない。女子生徒の名札には、「後藤」と書かれていた。彼女が、阿久津の新しい恋人なのだろうか。ぼくがカウンターの傍を通る時に会釈すると、後藤さんも微笑み返してくれた。


 ぼくたちは、出入り口から最も遠い窓際の席に向かい合って座った。


「珍しいね。ゆうくんが私を呼びつけるなんて」


 清廉せいれんさと神秘性を失わない程度のお見事な加減で制服を着崩した綾乃先輩が、笑って言った。


「これを見つけておくように頼まれてましたので」


 ぼくは、鞄から、封筒に収めておいたそれを取り出して、先輩に手渡した。

 チョウセンアサガオの栞だ。


「ん、ありがとう。お利口なゆうくんは好きだよ」


 頭を優しく撫でられた。やれやれ、ぼくは忠犬である。


「……先輩は、いつから気づいていたんですか」

「いつから、は愚問だね。わたしは、嘘吐きは視界に入った瞬間に分かるの」


 なんと。

 その台詞自体が嘘でないとしたら、驚天きょうてん動地どうちの超能力である。ぼくたちにはミステリー小説の主人公になる資格はなさそうだ。よしんば端役で出演できたとしても作者の手に余り、不可抗力によって序盤の開始数十ページで惨殺されるのが関の山だろう。


「この栞は、ぼくへのヒントのつもりだったんですか?」

「単に忘れただけだよ?」


 幸か不幸か、綾乃先輩と違って嘘を見抜くなどという人間離れした異能を持たないぼくには、その言葉が真実か否か分からない。


「……先輩が忘れてくれたお陰で、ぼくも気づくことが出来ましたよ。


 静人さんが車椅子など必要のない人間だということに」


 綾乃先輩が、栞を探してほしいと連絡してきたあの日――


 ぼくは、静人さんのテーブルの下に潜り込み、ようやっとそれを見つけることが出来た。


 そして同時に、静人さんが車椅子に乗せた足を見て――正確には、スニーカーを見て気づいたのだ。


「まず、紐靴のスニーカーを見て違和感を覚えました。足の悪い方が紐靴なんて履くのは不便だと思いました。大抵、マジックテープで留まる靴やスリッポンタイプのものを履いてる方が多いです。だから、さらに間近で見たら――」


 成程、そういうことか――


「――スニーカーの裏が、汚れていたんです」


 ああ――この男は嘘を吐いている。


 自分の足が悪いのだと偽っている――と。


「ところで、あとで気になって調べたのですが、チョウセンアサガオの花言葉には『変装』という意味があるそうですね」

「へえ、そうなんだ? 面白い偶然だね」

「……まあ、先輩がそういうことにしておきたいなら、それでも構いませんよ。それにしても、さっきから妙にニコニコしてますね、綾乃先輩」

「いやなに、ゆうくんの成長に感じ入っているだけさ。もっと聞かせてよ、ゆうくんのスイリってやつ。まずは嘘吐きを一匹発見して――それで、次は?」

「……次の違和感は、ぽんちゃん――生垣さんといっしょに華ちゃんの部屋に入った時でした。置かれていたぬいぐるみを抱いて、見た目よりも重かったり、感触にごつごつしたところがあったりしたので、生垣さんがいなくなった後に、中を開いて確認したのです。そして見つけました――盗聴器を」


 腹が立ったこともあり、宙にぬいぐるみの綿が舞うほど、乱暴な手つきで検めた覚えがある。ぬいぐるみには罪が無いというのに。


「可愛らしいぬいぐるみに、そんな疚しき道具が仕掛けられていると真っ先に思ってしまうなんて、過去の経験が生きてるね、ゆうくん」


 赫い赫い目をした、善人をおびき寄せるためのき餌を思い出す。


「誰かさんのおかげですよ、まったく……」


 ぼくは図書室の固い木製の椅子に、背をもたれさせた。


 綾乃先輩はテーブルに肘をつき、組んだ細い指の上に形の良い顎を乗せて、笑っている。


「あの時、生垣さんは、華ちゃんが『拉致された』と言いました。盗聴器が仕掛けられていたとなると、こちらの動向が文字通り筒抜けなわけですから、俄然その可能性が高まったとぼくも思いました。けれど、同時にこうも思ったんです。もしも華ちゃんがはなから盗聴器の存在を知っていたとしたら、その上で行動を重ねていたとしたら、それらの意味はすべて逆転しうる――」


 もしも、そうだとしたら、これまで起きた出来事のすべてが逆転する。


 追う者と、追われる者の関係もまた――


「して、ゆうくんの結論は?」

「華ちゃんは、盗聴器の存在を知っていたと考えます。そして、それを利用して彼女は被害者の立場を脱することにした。彼女は、ストーカーに追い詰められ苛まれる羊の立場を辞めることにしたんです」

「羊を辞めて、彼女はどうすることにしたのかな」

「狼になることにしたんですよ」


 図書室の空調は適温だ。ぼくは長袖のペールブルーのワイシャツを肘まで捲っている。綾乃先輩は、上品なベージュのベストに白ブラウスで、右腕には金縁に白文字盤の腕時計を嵌めている。ネイビーとホワイトのメッシュベルトが夏めいていた。


「結局のところ、ぼくを自宅のマンションに呼び寄せたのは、ストーカーを嫉妬させ行動を起こしやすくさせるため。ぼくに生家の紹介をする際に、地図アプリを起動しながらわざわざ住所を諳んじたのは、盗聴器を通して、ストーカーに位置を覚えさせるため」


 すべては、下準備だったのだ。


「華ちゃんは、自分の生家に逃げ込んだのではなかった。むしろ逆だった。彼女は、そこでストーカーを待ち伏せることにした」


 やがて。

 自らを捕食者と信じていたストーカー氏は、本当の自分は、無垢な葉と花弁でその本性を隠した食虫植物のつるに絡めとられる蠅だと思いさせられることになる。


「それって、物理的に可能かな? 小柄な女の子なんでしょう」

「できますよ。地の利を得た場所で、道具も揃えた上の奇襲です。覚悟さえあれば、力の差なんて関係ない」


 覚悟。


 ぼくは、華ちゃんの部屋に置かれていたイカリソウを思い出す。

 生垣さんは、イカリソウの花言葉は「君を離さない」だと言った。後から調べ直したら、別の意味もあることを、ぼくは知った。


「あなたを必ず捕らえる」――


 あの花を置いたのがストーカー本人でなく、華ちゃんだったのだとしたら――


 あれは、華ちゃんの決意の告白だったのだろう。


 あの真っ暗な古民家の最奥に、ぼくはどうしても進むことが出来なかった。

 あの時、闇に浮かんだ華ちゃんの顔が、どうしようもないほどにそれを拒絶していたからだ。


「でもその花やしきさん……もとい高屋敷さんは、どうしてそこまでしてストーカーを自分の手で捕まえようと思ったのさ」

「華ちゃんは……生垣さんが好きなんですよ。おそらくは友人以上の存在として」

「へえ? そうなんだ?」


 そこでようやく綾乃先輩は、ぼくの話に興味を示した――ように見えた。


「そしてそれをストーカー氏に知られている。たとえば彼女は、ぼくに相談する前に、自宅に侵入されて、写真などの私物を盗まれている可能性があります。あるいは後を尾けられたり、盗撮された過程でそのことに気づかれたのかもしれない。少なくとも、そう思ったことが、彼女に決意させるきっかけになった」


 それに――


 ぼくが華ちゃんの家で発見してしまった黒と金のブラジャーは、華ちゃんではなく生垣さんのものだ。おかしな話だが、あの古民家で倒れかかってきた華ちゃんを抱き留めた際に、華ちゃんが非常に着やせするタイプと分かった。さすがにそれを綾乃先輩に伝えるのは躊躇われるので、口にはしないが。


「ご機嫌な謎解きだねえ、ゆうくん。それで、ストーカーというのは結局、誰だったのさ」

「……たぶん、静人さんです」


 静人さんに、ストーカーについて相談をしたとき、静人さんはぼくを華ちゃんの彼氏だと茶化した。静人さんらしくない発言で、ぼくはそれをよく覚えている。ぼくと華ちゃんはきょうだいに間違われることは多々あれどカップル扱いされたのは、あれが初めてだった。


 それから、あの屋敷で聞こえた呻き声――あれは、静人さんの声だったように思う。


 静人さんが車椅子歩行者を演じていた嘘と合わせれば、華ちゃんのストーカーが彼だったと考えることは、おかしなことではない。


 ただ――


「たぶん?」

「……はい」


 ――ぼくにはまだ、彼が犯人であったと信じたくない心が残っているらしい。


「たぶんとか、おそらくとか、可能性があるとか……」綾乃先輩は小さなため息をついた。「ところでゆうくん、この話を私にした理由は何なのかな?」

「正直に申し上げれば――弁明です」

「おやおや、今日はどこまでも素直なゆうくんだなあ。いつもいつまでもそうであれば、もーっといいんだけれどね」


 綾乃先輩は、口に手を当ててくすくすと笑った。


 そう――弁明である。


 すべては、ぼくの浮気疑惑を晴らすためにほかならない。

 そのためだけに、ぼくは説明をしたのだ。

 そのためだけに、ぼくは受け入れがたい静人さんの事実を、知りたくもない華ちゃんの真相を、わざわざ推理して導き出したのだ。


 そのためだけに……。


「まさかこんな結末になるとは、露にも思っていませんでしたが……」


 あの夜――ぼくと華ちゃんは、常闇の古民家を脱出した後、バスと電車を乗り継いで地元まで帰ってきた。どちらの乗り物も嫌に空いていて、電車の座席シートではぼくたちは向かい合って座っていた。華ちゃんがぼくの隣に座ろうとしなかったからだ。


 最寄り駅に着くと、ぼくたちは声を交わすこともなく、目を合わせることもなく別れた。


 やれ、それにしても――だ。

 ぼくは次に華ちゃんと会う時にどんな顔をしたらいいのか、まるで分からない。


「ゆうくんったら、なんて顔してるのさ」


 綾乃先輩の声に、ぼくは現実に引き戻された。

 ぼくは相当に思いつめた顔をしていたらしい。綾乃先輩の顔色でそうわかった。


「それじゃあゆうくん、もう一つ質問するけどさ」先輩は、親が子に言い聞かせるように優しく言う。「ゆうくんは推理と妄想の境目って何だと思う?」

「え……」


 綾乃先輩が、ぼくの内側までも覗き込むような眼差しを向けてきた。


 ぼくは反射的に目を逸らした――窓の外の空が、急速に色を失いつつある様が見えた。つい先ほどまで午後の陽光が燦燦さんさんと降り注いでいたのが嘘のようだ。じきに夕立が来るだろう。


「……推理は、根拠に基づいた論理の積み重ねによって更なる事実を明らかにすることです。妄想は、根拠を持たない想像や思い込みで、多くは誤った判断を導く原因となる、といったところでしょうか」

「教科書的なご回答、どうもありがとう。それで、今のゆうくんの話は、どこまでが推理で、どこからが妄想なのかな?」

「……」


 ぼくは綾乃先輩を見、綾乃先輩はぼくを見た。綾乃先輩の瞳には、明らかな侮蔑と嘲笑が含まれていた。


「たとえば根拠って、こういうものじゃないの?」


 綾乃先輩は携帯を取り出して、テーブルに置いた。

 ディスプレイには――市街を歩く若い男性の後ろ姿を隠し撮りした画像が映っている。


「このひとは……まさか静人さんですか」


 ぼくは口走りながらも、内心では確信している。

 その怜悧れいりそうな横顔や、首が細く痩せた背格好は、ティーカップ・ゴーストの常連として何度も見た、静人さんで間違いがない。


 ただ――自力で立ち歩いている静人さんを見たことがないから、脳がそれを受け入れようとしないだけだ。


「この写真、いったいどこで――?」

「D市の駅前だよ」


 D市――隣県であるD県の県庁所在地だ。ぼくたちの住む街は県境に近いとは言え、D市に行くには、電車を乗り継いで二時間、高速道路で山間を抜けても一時間以上はかかる。


 綾乃先輩は、その細く長い指先でディスプレイをスライドさせた。二枚目の写真は――静人さんがD駅の大型ロッカーで車椅子を取り出すところだった。


「このひと、D市の郊外に親と一緒に暮らしてる。お金持ちの親に甘えて、もう四年も浪人してるらしいよ。車椅子は、同居している祖父の持ち物みたいね。家の中では家族から疎まれているんだろうけど、車椅子に乗って外に出れば、街の人は優しくしてくれるものね。きっとその感覚が病みつきになってたんじゃない」


 足が不自由どころか、東大院生すら、嘘だったのか……。


「そんな情報をどうして……」


 聞くまでもない。


 先輩は、静人さんを尾行したのだ。


 彼女はティーカップ・ゴーストに来襲したあの夜に、静人さんの容姿を覚えた。その後、ぼくと会わない間に尾行や聞き込み調査をして静人さんの素性を洗っていたのだろう。


「近隣の住人へのインタビューを録音してあるけど、聞く?」

「いえ……」


 ふいに校内に、下校を告げるチャイムが鳴り響いた。気づかぬうちに随分な時間が経っていたらしい。


「いいところでおしまいになったね。続きはまた今度にしようか」


 果たして、この絶望的な結末に続きなどあるのだろうか――?


 綾乃先輩は鞄を持って椅子から立ち上がった。ぼくもそれに続く。


 カウンターに座っていた後藤さんも帰り支度を始めていた。ぼくたちは彼女に再び会釈をして、図書室を出た。


 昇降口で、革靴に履き替える。綾乃先輩が下駄箱を開くと、ばらばらと四通の白い封筒が落ちてきた。いつも通りのことで、よもやぼくも綾乃先輩も驚かない。匿名の配達人たちの精励恪勤せいれいかっきんぶりにいたく感心するばかりである。


「ゆうくん、要る?」

「いえ……ちゃんと持って帰って、一読して差し上げてください」

「へえ、けっこう余裕な発言じゃん? いいのかな、それってまだ見ぬ強敵たちに塩を送る発言かもしれないよ」

「別に……そういう問題じゃないと思いますけど」

「男子高校生たちが手塩をかけて書き連ねたラブレターだし、案外おいしいかもよ?」

「想像したくない塩味ですね。ポテトチップスじゃないんですから。処分に困るからといって、ぼくに食べさせようとしないでください」


 忠犬にされたり山羊にされたり、忙しいぼくである。

 昇降口を出て、正門まで歩いたところで、雨が降ってきた。

 ぼくは鞄から、折りたたみ傘を取り出した。


「さすがゆうくん、用意周到だね。いやあ、私も見習わないといけないなあ」


 言いながら、先輩が傘の下に入ってきた。

 あの綾乃先輩が、傘を準備していないわけがないのだが、それを指摘するのは野暮にも程があろう。ぼくは黙ってそっと先輩の側に傘を寄せる。


 白雨はくうに肩を濡らしながら、ぼくたちは通学路を行く。路傍ろぼうの草むらから、芥川龍之介も吃驚びっくりするほど真っ青な光沢を放つ蛙が飛び出てきて、ぼくたちの前を横切った。日頃はひそやかに流れる小川も、今夕はあふるるほど増水してかまびすしい。濁流の中で鯉どもの頭が現れては消えていく。


 綾乃先輩は何も言わない。

 ぼくも何も言わない。


 雨に濡れて、綾乃先輩の香りがする。わずかな甘さを感じる香水だ。時たま、綾乃先輩の細い肩と触れ合いそうになるが、触れない。


「……雨がひどくなってきましたね」


 夏の雨らしく、山河も街もまとめて洗いつくすような、はげしいながらも清々すがすがしい雨だった。

 しかし、駅まではまだ距離がある。


「途中にコンビニがありますから、少し雨宿りしましょうか」

「私はこのままでいいよ」


 綾乃先輩が身体を寄せ、ぼくが傘を持つ手に腕を絡めてきた。ぼくの腕が、先輩の身体の輪郭に触れた。濡れたワイシャツの冷たさと、その内側で息づいている柔らかい肌の熱さを感じた。


「……これ以上濡れると、風邪を引きますよ」

「このくらいなら、むしろ気持ちいいよ。それに、もっと濡れてしまったら、うちに来ればいい。今夜はママがいないの」


 ぼくは思わず綾乃先輩を見た。

 先輩はぼくの方を見ておらず、前を向いたままだった。


「ママ、今夜は都内でチャリティーコンサートがあるってお友達と出かけてるの。帰りは遅くなるって。だから今夜はわたし、おうちにひとりっきりなんだ」

「……」


 コンビニまでは、あと数十メートルだ。

 三十秒もかからずに辿り着いてしまうだろう。


 立ち寄るか、

 通り過ぎるか。


 ただの二択に過ぎないというのに、その一方が選べない。

 まるで人生の岐路を選べと言われているかのようだ。


 歩道は泥濘ぬかるんでいる。水たまりを避けようとして綾乃先輩の脚がふらついた。

 ぼくは傘から手を離して、彼女の身体を引き寄せた。

 傘が地面に落ちる。雨粒が、ぼくと綾乃先輩の頭や顔、肩や背を打ち始めた。


「……濡れちゃったね」


 綾乃先輩は、濡れた髪をかきあげながら、言った。

 確かに、ぼくたちはずぶ濡れになってしまった。


 コンビニに入店することすら躊躇ためらわれるほどに。

 取り返しのつかないほどに。


 もう迷う必要はなくなってしまった。


「いい目だね、ゆうくん……」


 綾乃先輩が口の端をかすかに上げた。


「わたしと同じ、けだものの瞳をしている……」


 ぼくは何も答えない。

 黙ったまま、落ちた傘を拾うより先に彼女の手を握ろうとした。


 その時――

 閃光。

 鉛色の空を真ッ二つに切り裂くかのような、一筋の光線が走る。


 雷雨になるか――

 そう思う間もなく、凄まじい雷鳴が響き渡った。


「ひゃあうっ」


 綾乃先輩がその場でしゃがみこんだ。

 繋ごうとしたぼくの手は空を切った。

 その手で、落ちた傘を拾う。


「綾乃先輩、だいじょうぶですか」


 ぼくはしゃがみこんだ彼女の頭上に、傘を差しだした。


「う、うん」


 知らなかった――綾乃先輩は雷が怖いなんて。

 五年間もの付き合いがあっても、知らないことはあるものだ。


 いや――本当は、彼女についてぼくが知っていることなど、何一つないのかもしれない。


 雷鳴などよりもはるかに悍ましく眩しい閃きがぼくの脳裏に去来していた。


 だから、

 ぼくは、綾乃先輩に手を差し出そうとしたが――出来なかった。


 右手は指先まで痺れて動かない。

 身体が、拒んだ。

 先輩は一人で立ちあがる。


「コンビニで、タオルとビニール傘を買いましょう」


 ぼくは先輩の顔を見ずに言った。


「……ゆうくんが、そう言うなら、今日はそうしておこうか」


 先輩の顔も、ぼくにはよく見えなかった。


 ぼくたちはコンビニに入った。通学時間帯であれば、いつも学生で盛況な店内だが、今は空いている。


 ぼくは、タオルを吟味している先輩の横顔を見ている。

 脳漿のうしょうに雷撃で刻印されたかのように、悪夢的な思考が消えずにいる。


 今の悲鳴は――

 ぼくが、華ちゃんのマンションに泊まった時に聞いた悲鳴と、まるで同じ声だった。


 あの時、華ちゃんも雷を怖がっていたのは確かだ。

 けれど、華ちゃんは最初、自分が悲鳴を上げたことを否定していた。彼女の照れ隠しだと僕は思っていたが、もしかしたらベランダに身を潜めた誰かが、思わず声を出したのかもしれない。雷鳴の轟音で、悲鳴がどこから発されたのかはっきりと分からなかったし、ぼくはあの時ベランダを確認していない。


 後に、ぽんちゃんとマンションを訪れた際、ぼくは、倒れた植木鉢などベランダに誰かが潜んでいた痕跡を見つけている。


 ぼくは、あの勘違い男――刈谷の言葉を思い出す。


『ここに来れば、高屋敷さんに会えるって……』


 誰かが刈谷に、華ちゃんがティーカップ・ゴーストでバイトしていることを教えたのだ。


 それがあの騒動を引き起こした。

 いったい誰が、何のために?


「先輩」

「なあに、ゆうくん」


 白いタオルを手に取った先輩が、ぼくの方を向いた。


「いえ……」


 ぼくは、綾乃先輩に訊ねたかった。


 ――ぼくが華ちゃんと過ごした土曜日、先輩は本当に両親と過ごしていたんですか?


 ――ぼくをずっと、尾行していたのではないですか?


 無意味であることはわかっている。ぼくが問いただしたところで、先輩ならば、十全じゅうぜんな回答を用意していることだろう。


 つまるところ、これは結局、

 すべて、ぼくの些末で粗末な妄想に過ぎない――


 一つだって、根拠はないのだから。

 推理にさえ、成ってくれはしない。


「ぼくは、探偵にはなれませんね、きっと」

「え? 急にどうしたの?」

「いいえ。そのタオル、買ってくるので、かしてください」


 先輩の返事を待たず、ぼくは先輩の手からタオルをさらって、レジへ持っていく。


 そうだ、ぼくは決して探偵になどなれはしないのだろう。

 どこの世界に、謎を解き明かせないことに安堵している探偵がいるというのだ。

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