2-10

 その集落は、ぼくたちが住む街から電車で一時間、さらにそこから路線バスで数十分ほど揺られて行った、山間部にあった。粗末な東屋あずまやのあるバス停を下りて、ぼくは歩き出す。


 既に時は夕暮れ。

 逢魔が時には、人間でないものと逢いやすいというから、ここからは身を引き締めなければなるまい。


「それにしても……」


 県内にこんな村落があったとは、生まれて十余年のぼくも知らなかった。家と家の間の距離が長く、周囲には田んぼが広がり、遠景は青々とした山に囲まれている。こういうのどかな場所でこそ、華ちゃんみたいなひとが育つのかもしれない。


 先日、華ちゃんがそらんじていた住所を地図アプリに入力すると、すぐにその場所が表示された。


 バス停から歩き始めて四半刻も経った頃、ぼくは目的地に着いた。


 古民家こみんか――とでもいうのだろうか。

 相当な老朽化が進んだ、瓦屋根の二階建ての屋敷が門扉から奥まったところに建っている。門扉もんぴは高さ一・五メートルほどあり、通用口がついているのだが、錆びきっていて開きそうにない。仕方なしにぼくは門扉を乗り越えて、敷地内に侵入した。


 周囲に明かりはなく、ぼくは携帯から懐中電灯を起動させようとして、止めた。人の住まない家とはいえ、不法侵入には変わりがない。膝丈ほどもあろう雑草が生い茂る中を歩いた。


 辿り着いた玄関は引き戸になっている。把手とってに触れると――鍵は掛かっていなかった。


 中に入った途端、ぼくはコールタールのような粘ついた闇に包まれる。


 開かれた玄関から差す月光によって、かろうじて内部が見えた。右手にふすま開きの和室、左手に廊下、正面には階段――外から見ても感じていたが、迷宮のような広さだった。


「華ちゃん! いますか!」


 ぼくは目の前の奈落に向かって叫んだ。


 反応はなかった。ぼくは靴を履いたまま、框をあがった。

 そのまま進もうとして――ぼくは進めなかった。


 圧を感じたのだ。

 気配ではなく――圧。


「華ちゃん、ぼくです」ぼくは自分の名前を名乗った。「いるなら、返事をしてください」


 ぼくの声は反響しないまま、虚空に吸い込まれた。


 当てを外したか――

 そう思いかけた時、ぼくは気づいた。


 階段を上がりきった先に――


 顔。


 白い少女の顔が、闇の中に浮いていた。


 座敷童――いや、ありえない。


 能面――いや、生きている。


 その無感動な二つの瞳は、獣のような炯炯けいけいとした光を放っている。


 ぼくもまた、視線を外せない。


 一度でも目を逸らしたら――必ず喰らいつかれる。


 どれだけぼくたちは対峙していたのだろう。


「華ちゃん?」


 と、ぼくが口にした瞬間――闇に潜む獣面じゅうめんに人格があらわれ、華ちゃんの顔になった。


「……ゆうちゃん」


 それは、か細くかすれていたが。

 確かに華ちゃんの声だった。


「どうしてここだってわかったの?」

「思い出の場所だと言っていたので、華ちゃんが家出をするなら、ここだろうと思いまして」

「……ひとりで来たの?」華ちゃんの声は、無感情なままだ。「ぽんちゃんもいるの?」

「……いません」


 ぼくがそう答えると、華ちゃんの瞳が少しだけ沈んだような気がした。

 ぼくは、続ける。


「けれど、ぽんちゃんにも伝えてから来ました。ぽんちゃんは、警察に行くつもりです。早く帰って安心させてあげてください」


 ぼくは一歩踏み出そうとしたが、


「待って」


 と華ちゃんに制された。


「私が行くから」


 顔が消え、しばらく経つと、スウェット姿にリュックを背負った華ちゃんが、壁に手をつきながら、下りてきた。


 やつれきった姿だった。


 ふらついた彼女を、ぼくは思わず抱き留めて、その小さな身を支える格好になる。


「先に出ていて。私も少し休んだら、行くから」


 冷たい声で囁かれ、はっとした。

 華ちゃんからは、もう日向の香りはしない。


 ぼくは、会釈をして、外へと出た。


 華ちゃんに気づかれないように、両耳を押さえながら――


 暗い家から低く響いてくる、誰のものか分からない唸り声に聞こえないふりをした。

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