2-9

 突然の来訪者は、さらにその三日後に現れた。


 ぼくが、華ちゃんの姿を最後に見てから、ちょうど一週間が経とうとしていた。


 その間、彼女を心配しなかったわけではない。華ちゃんの携帯には、何度か連絡を試みたが通じなかったし、件のマンションの前まで行ったこともあるがオートロックのため中に入ることもできず、様子は分からず仕舞いだったのだ。


「……あれ。なんだか、ぼくまでストーカーじみてきたな」


 土曜日、正午。


 ティーカップ・ゴーストのキッチンでガラスのコップを磨きながら独りごちた。

 常識的な推理をすれば、華ちゃんはきっと、友人であるぽんちゃん宅で静養しているに違いない。


「とまれ、華ちゃんはバイトを辞めちゃうのかな……」


 店長に尋ねても、首を横に振るばかりである。店長だって「俺の方が聞きたいよ」という心境だと思う。


 だからだろう――その来訪は、ぼくにとって宇宙人の襲来と同じくらいの衝撃があった。


 ティーカップ・ゴーストのチャイムが上品に鳴り響く。

 りガラスのアンティークなドアが開かれ――現れたのは、常連客の誰でもなかった。


「ゆうちゃん、はここにいるか」


 その声は、ハスキーで凛々しい。


 すらりとした高身長の女性だった。シャンパンゴールドのセミロング、黒のシンプルなカットソーに、ホワイトフレームのサングラスを引っかけている。下は七分丈のリップドデニムに、足元はヒールが利いた黒革のサンダルだ。マニッシュな服装を何の衒いもなく十二分に着こなしていた。


「君か? なんだか『ゆうちゃん』的な顔をしているな」


 どんな顔なんだ、それは。

 さっぱり分からなかったが、ぼくは身体中のなけなしの愛想を顔面に集めて、にこやかに応えた。


「ええ、ぼくが『ゆうちゃん』です」

「私は生垣いけがき。高屋敷華の友人だ」


 ああ――

 ぼくは直感的に察知する。


「あなたが、『ぽんちゃん』ですか」

「そうだよ、『ゆうちゃん』。今度こそハジメマシテだな。華が世話になった」


 生垣さんが幾つものシルバーリングを嵌めた手指を差し出してきた。ぼくたちは握手を交わした。


「世話になった、とはどういうことですか」


 それではまるで華ちゃんと、もうこれからは会えないようではないか。

 たとえば、ティーカップ・ゴーストを辞めるとでもいうような――


「言葉の通りの意味さ。確認に来たんだが、ここに華はいないね?」

「はい。ぼくはもう、一週間はお見かけしていませんよ」

「そうか。奇遇だね、私は今日でちょうど二日目になる」

「はい?」ぼくは耳を疑った。「どういう冗談ですか?」

「冗談なわけがない。見ての通りの性格で、冗談はあまり得意じゃない。つまり、華の行方が一昨日から分からないんだ」

「な――」


 ぼくは持っていたガラスのコップを落としかけた。


「私は居酒屋でバイトをしているんだが、一昨日は夜勤があって、昨日は昼前に帰ってきたんだ。帰った時には、既に華はいなかったんだが、ちょうど出かけているものだと思った。そこから眠って、夕方に起きたんだが、やはりいなかった。共通の友人にも連絡したが知らないという」

「そんな……」

「ここが開店するのを待って、一応来てみたんだが、やはり無駄足だったか」

「警察にはもう連絡したんですか?」

「まだだ。これから華のマンションに行く。それでいなかったら連絡しようと思う。じゃあな、ありがとう、ゆうちゃん」


 言って、生垣さんはさっと踵を返した。

 その背に、ぼくは声をかける。


「待ってください――ぼくもついて行っていいですか?」

「君もか?」これまでの会話では、まるで表情の出なかった生垣さんが、わずかに眉根を寄せた。「まあ、構わないが。店はいいのか」

「はい」店長には、わけを話せば、問題なく納得してくれるだろう。「ところでマンションは、どうやって開けてもらうんですか」

「それは問題ない。私は鍵を持っている」

「鍵? 生垣さんは、華ちゃんのマンションの合鍵を持っているんですか?」

「ああ。華は言ってなかったか?」


 初耳だ。だが、何かあった時のために家を借りている友人に合鍵を渡しておくというのは理解できる行動だった。

現に今まさに、その『何かあった時』が訪れているのだから。


 *


 ぼくと生垣さんは、マンションの最寄駅へ降り立った。マンションに向かう途中、かつて華ちゃんと立ち寄った、森の動物たちのパティシエが相も変わらず元気いっぱいに営業していた。華ちゃんと二人でケーキを買ったことが、はるか遠い昔のことのように思えた。


 初夏の晴れ渡る日差しの下、初対面の年上の女性と、沈黙を後生ごしょう大事に抱き合いながら並んで歩くのは苦痛だったので、ぼくはふと疑問に思ったことを訊いてみた。

「生垣さんって、どうして華ちゃんから『ぽんちゃん』って呼ばれているんですか」

「大学の飲み会で日本酒ばかり飲むから」

「おお……」思っていたよりも遥かにオトナな理由だった。まったくほんわかしていない。「お酒、お好きなんですね」

「そうだな。以前は、ふらっとバーに入って、ショットグラスに注がれたラムやテキーラのストレートをカッと喉に流すのが好きだったんだが、華に止められてからあまり行かなくなった。若い女が一人でそういう飲み方をしていると、変な男が近寄ってくるという。華が言うと、悪い意味で説得力があってね、それで止めた」

「生垣さんって華ちゃんと同じ学年なんですよね?」

「ああ。そうだが、それが何か」

「いえ……」


 華ちゃんが、大学二年生の二十歳だということは覚えている。

 生垣さんも同い年だとすると、これはなかなかの酒豪っぷりだろう。


「でも、華の方が年上なんだよ。あの子は四月生まれなんだけど、私は早生まれでね、二月が誕生日なんだ」

「えっ」


 ぼくはこの件について、それ以上詮索することを止めた。

 知らぬが仏という素敵な日本語もある。


「ところで、君は、華のことを華ちゃんと呼んでいるみたいだが」

「はい。バイトを始めた頃に、華ちゃんの方からそう呼んでほしいと言われましたから」

「へえ、気に入られているんだな」

「どうでしょう。とりたててそう思ったことはありませんが」

「大学で、そうやって呼ぼうとした馴れ馴れしい男子がいたけど、華はけっこう本気で怒ってたよ。女子はともかく、男子にそう呼ばれてるのは聞いたことがないな」

「それは……」


 ぼくが男子と思われていないだけなのではないでしょうか――

 と、自ら尋ねるのは、ぼくの自尊心が激しく固辞こじしたのでやめておいた。


「大学と言えば――あの、刈谷さんのことについて、生垣さんはどこまで知っているんですか」

「どこまでも何も、初めにあいつを疑い始めたのは私だったからな。聞いたよ、君たちの喫茶店に不法侵入したんだろう?」

「ええ。びっくりしました、あんなひとがいるなんて」

「刈谷は、うちの大学の附属小学校からの持ち上がり組で、勉強だけは阿呆みたいに出来るんだ。ただ、どうもとっつきにくい性格で、学内でも浮いていた。うちは二年次まで、選択した第二外国語でクラス分けされるんだが、そのクラスでも浮いてたらしい。そこを、同じクラスだった華が気を遣って話しかけたら……」

「勘違いされたというわけですか」

「よくわかっているじゃないか。華もすぐに違和感を覚えて距離を置くようにしたんだが、時すでに遅くてね。学内では、学食やら購買やらに行く度に付きまとわれて、挙句の果てに最後には告白されたというわけだ」

「それを華ちゃんは、やんわりとお断りしたと」

「素晴らしいな、君は。それとも華から聞いたことがあるのか?」


 もちろん、華ちゃんが、ぼくにそんな話をした覚えはない。


 だが、柿原綾乃という愛され大権現だいごんげんと日々接しているぼくには、告白男子の類例が頭蓋骨から零れ落ちそうなほど大量にインプットされている。そのデータから導き出せば、刈谷はよくいる残念な勘違い系男子の一人だった。


「告白に失敗してからは、鳴りを潜めていたはずなんだが……ここまでの厄介ごとを起こすとは思ってなかったよ。華が警察から聞かされた話によれば、刈谷は喫茶店への不法侵入は認めるが、それ以外のストーカー行為を否定しているという」

「正直、信じ難いですね」

「ああ。そして警察も今のところ、刈谷がストーカーを行っている証拠を掴めていない。不法侵入については、未成年の初犯ということもあって厳重注意で済ませたようだ。もちろん、警察はマークを続けているということだが」

「けれど、それでは……」


 ぼくは内心、愕然としていた。

 結局、何の問題の解決にもなっていないということではないか。


 もっと言えば――今回の華ちゃんの失踪に、刈谷が絡んでいても何も不思議ではないということだ。


「生垣さんは焦っていないんですか。もしかしたら刈谷が華ちゃんを……」

「焦ってるに決まっているだろ。見てわからないのか」


 分からないんだよなあ。

 このひと、表情が変わらない。まるで内心が読めない。

 優秀な狩猟犬のような辛口な容姿も相まって、どこをとっても華ちゃんとは真逆のタイプのひとだった。


「だったら、なぜ……」

「……学内の噂で聞いただけだが、刈谷の親は警察官僚らしい」

「な……」


 皆まで言わずとも、生垣さんが何を言いたいのかはぼくにも分かった。


「警察に口利きがあったと疑っているわけではない。むしろ、警察官の方たちは、とても親身に相談に乗ってくれて感謝している。けれど、自分の身はまずは自分で守らないといけない。私たちはそう思っているってことだ」


 それが、警察への連絡を後回しにしている理由なのか。


 ぼくたちはマンションに辿り着いた。生垣さんがレザーのキーケースから、慣れた様子で鍵を取り出すと、オートロックのエントランスを通り、エレベーターを上がる。そして部屋のドアを開けた。


「華、いるか!」


 暗い部屋に、生垣さんの声が響いた。反応はない。


 明かりを点けると――室内は雑然としていた。脱ぎ散らかされた衣服、開かれたままの引き出し、ベッドに投げ出されたバッグ。


「これは……?」


 部屋の中央のガラステーブルに、玄関に置かれていたはずの三つの熊のぬいぐるみが並べてある。三匹は輪を作るように向かい合って配置され――その中央に、ぬいぐるみたちが両手で抱えるようにして、花束が置かれていた。


 奇妙な形をした花だった。桃色の小さな花弁から、蝸牛かたつむりつののようなものが数本突き出ている。それが無数に集まった花束だ。ただ、若干色合いがくすんでいる。


「枯れている?」

「いや、これはドライフラワーだろう」


 生垣さんが言った。


「イカリソウだな。船のいかりのかたちをしてるからイカリソウという」


 ぼくにはとてもそうは見えない。花の名前をつけた昔の人は想像力が豊かだったと思わざるを得ない。


「なぜ、こんなものが……」


 ぼくは、イカリソウの花束と熊のぬいぐるみを抱き上げた。


「おい、窓を見ろ」


 生垣さんの鋭い声に顔を上げると、


「窓が開いている……」


 わずかな隙間だが、ベランダに続く窓が開いていた。部屋に入った時にはカーテンで気づかなかった。


 ぼくたちは、窓からベランダに出た。単身者用マンションにしては幅広なベランダで、雨の日でも洗濯物が干せそうだ。眼前は向かいのマンションの壁面で、眼下には狭い路地が走っている。足元を見ると、小さな鉢植えが倒れていた。花は植わっておらず、土がタイルにこぼれている。ぼくはガラス窓に手で触れた。あまり磨かれていないようで、触れると手跡が残ってしまった。


「なあ、華はかどわかされたんじゃないか」

「え……」

「この窓から入ってきた男に脅されて、そのまま拉致されたんだ」

「それは……」


 吐き気のするほどおぞましい想像だった。だが否定はできない。状況証拠は十全に揃っている。


「ゆうちゃん、イカリソウの花言葉を知っているか」

「いや、知りませんけど……」


 なにしろ、今しがた生まれて初めて見た花である。見当もつかない。


「君を離さない」


 その言葉を聞いた途端に、背筋を無数の百足むかでが駆け上ってきた。


「いくらなんでも、それは……」

「悠長なことを言っている場合ではなかったよ。私の判断ミスだ。私はこれから警察に行く。ゆうちゃん、君は帰りなさい。これ以上、巻き込みたくない。華もそう思っているだろうから」


 生垣さんが背を向け、玄関へと向かっていく。ぼくの存在を忘れたのか、振り返ることもなく、ドアから出て行ってしまった。意外と慌て者な一面もあるらしい。


 独り、部屋に取り残されたぼくは、再び熊のぬいぐるみに触れた。


「どいつもこいつも、似たようなことを考えるものだ……」


 ぼくは激情のままに、手にしたぬいぐるみを引き裂いた。

 腹を裂き、首を抜き、宙を舞う綿くずを眺める。


 ぼくはつい最近、同じ目的で作られた哀れな人形を目撃したばかりだった。

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