2-8

 翌週のバイトに、華ちゃんはついぞやって来なかった。


 ティーカップ・ゴーストのホールには、ぼくだけでなく、珍しく店長も立っている。人手が足りないからだ。


「高屋敷、電話だと体調不良でしばらく休むって言ってたな」


 頭に包帯を巻いても一向にダンディさが失われる気配のない店長が言った。


 ティーカップ・ゴーストは、あの悪夢のような夜の後、三日間の臨時休業を頂いた。その間、店長は警察から事情聴取を受けたり、頭の怪我のために一時検査入院したりと目の回る忙しさだったという。なお店長の話によれば、華ちゃんは一度、店長のところに謝罪に来たらしい。


「きっと華ちゃん、非常に罪悪感があるんでしょうね。気持ちはわかる気がします……」

「高屋敷の責任じゃない。事故みたいなもんだろ。それよりも、このまま辞めちまわないか、心配だな」

「まさか、店長がコーヒー以外のことで心を揉んでいるところを見る日が来るとは……」

「馬鹿言え。こないだ言った通りだ。お前らがキリキリ働いてくれないと俺の研究がとどこおるんだよ」


 言って、店長はキッチンに戻っていった。


「高屋敷さんのこと、僕も心配ですね」


 入り口横の席に、いつもと同じように静人さんが座っていた。テーブルには愛用のMac bookのほかに、この間とは別の専門書を積み上げられている。


「その刈谷という青年が、彼女のストーカーだったのでしょうか」

「それはまだ分かりませんが……」


 だが容疑者の筆頭候補であることには間違いないだろう。警察の捜査がどのように進んでいるか定かではないが、彼のストーカー的才能の片鱗は、先日ぼくも散々なまでに味わわされたばかりだった。


「とまれ、早く華ちゃんが日常に戻れるといいんですが」


 突然、電話が鳴った――ティーカップ・ゴーストの固定電話ではない。ぼくの尻ポケットに刺さっている携帯が震えたのだ。


 ぼくはディスプレイに表示された名前を見て、仕方なしに通話ボタンを押した。 静人さんから離れる。


「どうかしましたか?」

『どうかしなかったら、電話しちゃだめ?』


 綾乃先輩は、なぜだか上機嫌だった。ここ最近は有り得なかったことだ。なんだか少し気味が悪い。


「ダメじゃないですけど、今、バイト中なんですよ。先輩も知ってるでしょう」


 先日の、ぼくが華ちゃんを駅に送った件――綾乃先輩曰く『浮気事件』以降、ぼくは綾乃先輩に直近一ヶ月の行動予定表を提出させられていた。バイトのシフトも、確定分はすべて伝えている。


『うんうん知ってる。今日はちゃんと労働にいそしんでいるようで私は安堵しているよ』


 まるで保護者のような口調だった。


「……高屋敷先輩が、体調不良で来られなくなっちゃったんで、今、特に人手不足なんですよ」


 ぼくは、刈谷来襲事件についてざっと話した。


 ちなみに綾乃先輩の前では、華ちゃんの呼び方は高屋敷先輩で通している。更なる誤解を招くおそれがあるからだ。


 ぼくの話を聞いた綾乃先輩は、


『ふうん、やっぱりやけに心配してるんだね、そのタカシマヤさんのこと?』


 名前を間違えたのは、きっとわざとだろう。ぼくは指摘しないことにした。


「だから、ぼくはそういうつもりじゃ……」

『ところでさ』


 ところで?


 華ちゃんのことなど、露骨にどうでもいいと言わんばかりの話の切り上げ方だ。


『私、このあいだティーカップ・ゴーストに忘れ物しちゃったみたいなの。栞なんだけど』


 思い返せば、綾乃先輩は前回の来店時に、予備校のテキストを読んでいた。


『回収しておいてくれない? 今度会った時に渡してくれたら嬉しいな。床にでも落ちてるだろうから』

「はあ。先輩のお願い事なら、なんだって」

『さすがゆうくん。期待してる』


 それが本題だったようだ。電話は切られた。

 しかし、先輩の来店以降に何度かホールを掃除する機会があったはずだが、栞なんて見つからなかった気もする。奥底にでも挟まっているのだろうか。先日、綾乃先輩が座ったソファ席を当たるも、栞など影も形も見当たらない。


 その後も、ぼくはホールでオーダーを取ったり、テーブルの食器を下げたり、レジで会計している合間にも、店内を探し続け――


 見つけた。


「失礼します」


 ぼくがテーブルの下に潜りこむと、


「おやおや、避難訓練でも始めたのかい」


 頭上から静人さんの声が降ってきた。


「他のお客様から、忘れものをしてしまったと、さっき電話がありまして。すみません」


 それは、入り口横のテーブル席――静人さんの席の傍にある棚と床の間に挟まっていた。先日、先輩が座っていたソファ席からは少し離れているが、風で飛ばされたのだろう。


 ぼくは静人さんのすぐ傍でひざまずくかのように、身をかがめた。電動車椅子の車輪の向こう側に、静人さんの黒のスラックスと細紐のスニーカーの先に、落ちていた。


 成程、そういうことか――それを拾い上げながら、ぼくはひとり納得した。


 とある花のイラストがあしらわれた長方形の栞である。

 トランペットを下に向けたような白い美しい花と、棘だらけのボール状の実が合わせて描かれていた。


「へえ、チョウセンアサガオだね。持ち主の方は、なかなか素敵な趣味をしている」


 静人さん曰く、神経毒を持つ有毒植物だという。元はインド原産で、江戸時代に麻酔薬の原料を目的に輸入されたが、時の流れとともに日本で野生化した。ちなみにアサガオの名を持つにも関わらず、朝顔とは何の関係もなくナス科らしい。


「村上龍の傑作、コインロッカーベイビーズにも重要なモチーフとして出てくるんだよ。ぼくはあの小説で、この花の存在を知ったな」


 人を狂わせる猛毒――けれど、純白で可憐で美しい。


 そう、確かに。

 綾乃先輩にはとびきりよく似合っている。

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