2-7

 嵐のような出来事があった火曜日から三日後――金曜日。


 その夜、ぼくは華ちゃんとティーカップ・ゴーストのシフトが一緒になった。営業時間が終わり、ぼくたちは片付けに入っていた。


「はあ……私、正直、このお店の中でこうやって働いてる時が、いちばん落ち着きますよう」


 ぼくたちは、店内の席の椅子をすべて上げ、掃除機をかけているところだった。かけ終わった場所から、椅子を下ろし、テーブルをダスターで丁寧に拭いて、席を整える。


「もうここに住みたいなあ、寝袋とか持ってきちゃダメかなあ」

「店長なら案外許してくれそうですね」

「ですよね! 私、ここで店長が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、ゆうちゃんと一緒に勉強したり雑談したりしてる時が一番幸せです。ここは私の聖域なんですよ」


 あれから。

 華ちゃんは、ぽんちゃんとともに最寄りの警察署に相談に行ったという。女性の警察官が親身に話を聞いてくれたということだった。華ちゃんのマンションにも一緒に赴き、不審物を回収してもらい、被害届も出せたという。だが、その後の対応は、やはり静人さんの言う通りだったようで、今のところ、近隣パトロールの強化を約束してくれただけのようだ。


「ぼくも泊まりたいなあ……」


 華ちゃんがこちらを向いて嬉しそうに微笑む顔を見て、ぼくはようやく自分がそう口走っていたことに気づいた。


「よく言ったあ、ゆうちゃん! そうと決まったら、そうしましょ! そうしましょったらそうしましょ!」


 華ちゃんは、本気か冗談かわからないような愉快な節交じりの口ぶりで言った。

 さて、そんなぼくの方はと言えば――先日、綾乃先輩に電話口で釈明の機会を得たものの挽回できずにいた。先輩は冷めきった素振りを隠すこともなく、ぼくの話に二度三度、ため息交じりの乾いた返事をすると、さっさと電話を切った。以降はぎくしゃくというか、連絡を取り合うこともなければ、学校の廊下で会ってもすれ違うような日々を過ごしている。


「バックヤードにベッドを搬入して、二人でここに秘密基地を作るのでっす!」

「そこまで本格的になると、果たして店長は許してくれますかね……」

「いや、店長ならベッドを見ながら『おう、住むのか』って平然と言ってコーヒー研究に戻っていきそうな気もします!」

「確かに店長ならそんな反応かもしれませんね。以前、地震が起きた時、ぼくやお客さんはテーブルの下に隠れたんですが、店長は水出しコーヒーの抽出器を手で押さえながら、『この揺れは良い味になる』って冷静に言ってましたからね」

「いかにも店長らしいですねえ。怒ったところなんて見たことないし」


 そんな風に、ぼくたちが二人で笑い合っている時だった。


「お前ッ、そこで何をやっているんだ!」


 怒号。


「え――?」


 その声の主が店長であると気づくまでに、ぼくたちは時間を要した。

 はじめ、店長の怒鳴り声など聞き間違いだと思ったのだ。華ちゃんだってそうだろう。


「裏の方からでしたよね? 行ってみましょう」


 駆け足のぼくの後を、華ちゃんがとたとたとついてくる。

 事務所の裏口――だとはじめは思った。だがそこには誰もいなかった。しかし裏戸は無防備に開け放されており、不穏な雰囲気を放っていた。


 やがてぼくたちはその現場に辿り着いた――


 店長と、その彼がいたのは――更衣室だった。


 彼――背が高く、その背を丸めた巨大な溝鼠どぶねずみのような青年だった。暗い色合いのチェックの長袖シャツに、裾の余ったブルージーンズ、黒のハイテクスニーカーを履いていた。スポーツ刈りで、顔つきはのっぺりとしていて表情が見えず、奇妙な威圧感がある。


「お前は誰だッ! どこから入ったッ!」

「すみませんすみません……」


 青年は、ただ振り乱すように頭を上下させ、くぐもった声で謝罪を繰り返していた。


 何より異様なのは――彼は、更衣室のロッカーの把手に手をかけていたことだ。


 何をしようとしていたのだ?


 ぼくが更衣室の入口で立ち尽くしていると、店長が気づいた。


「ああ、お前らも来たか。すぐに警察を呼んでくれ。おかしな奴が勝手に入ってきた」

「は、はいっ」


 ぼくは尻ポケットから携帯を取り出した。


「……刈谷くん?」


 ぼくの後ろに隠れるように立っていた華ちゃんが、青年を見て、小さな声で言った。


 その途端だった。

 青年――刈谷の顔が急激に色づいたのだ。


「高屋敷さん!」


 刈谷はロッカーから手を離し、華ちゃんに向かって突進するかのように迫ってきた。


 華ちゃんは「ひっ」と声を上げて、ぼくのエプロンを握り、寄り添ってきた。


 すぐさま店長が、ぼくたちと刈谷の間に割って立ち、刈谷を押さえかかった。


「お前ッ、いい加減にしろよッ」


 だが、刈谷は店長に取り押さえられながらも、店長など見えていないかのように、華ちゃんだけを見ながら、


「ボクっ高屋敷さんに謝りたくてっココに来れば高屋敷さんに会えるって聞いてっ」


 そのような意味のことをモゴモゴと口走っている。


「だったら何で正面から入って来ないッ。だったら何で更衣室にいるんだッ、おかしいだろうがッ」


 店長が怒鳴った。刈谷を必死に押さえているからだろう、いつもはポマードで整えられた白髪交じりの前髪は乱れ、額から一筋の汗が流れ落ちた。


 ぼくは二人から目を離さずに、携帯のディスプレイに表示されたキーパッドで一、一、〇と押して、発信ボタンに指をかけた――


 それと同時だった。


「ウワアアアアアアアアッ!!」


 まるで獣の咆哮ほうこうだ――刈谷は巨体を乱暴に揺さぶって、店長を振り切った。突き

飛ばされた店長は、背をロッカーに強か打ちつけた。刈谷は、ぼくたちに向かって、ブレーキの壊れたトラックのように勢いを上げて突っ込んできた。


「ゆっ、ゆうちゃんっ!」


 ぼくはとっさに携帯を華ちゃんに手渡し、彼女を後ろに突き飛ばすと――刈谷のタックルを全身で受け止めた。


「ぐッ――」


 巨木の丸太で殴られたかのような凄まじい衝撃だ。ぼくと刈谷には頭一個分ほどの体格差があったが――ぼくは吹き飛ばされず、ふんばった。刈谷の獣臭じゅうしゅうのような汗と息の匂いが胸いっぱいに広がり、俄かに吐き気を催した。


「高屋敷サン高屋敷サン高屋敷サン高屋敷サン高屋敷サン高屋敷サン高屋敷サンッ」


 頭上から、刈谷の唾と声が雨と霰のように間断なく降ってくる。ぼくは耐えながら、


「華ちゃん、早く警察に電話を!」

「は、はひいぃ」


 はいと言おうとしたら、半分が悲鳴になってしまったらしい華ちゃんが、小さい手でぼくの携帯を操作しようとしているが、上手くいっていないようだ。


 その間、刈谷は暴れ牛の如くぼくの制止を振り切ろうとするが、ぼくはそれを許さない。


 わずか数秒の、拮抗状態――


 その刹那がなければ、果たしてぼくは、そんな失言を口から零すこともなかったのかもしれない。

 しかし、それほどまでに腹が立っていたのだから、仕方がないだろう?

 この不躾ぶしつけ極まりない、年上の男に。


「大学で何を学んでいるか知らないが、お前みたいな人の話を聞かない奴に目を付けられたら、華ちゃんも嫌な思いをするわけだ」


 刈谷は初めてぼくの顔を見た。

 

 はじめ、刈谷はまったくの無表情だった。およそ人格というものが彼の顔からは一切消え失せていた。


 だが。


 次の瞬間には、その分厚い顔を、段ボールを潰すようにぐしゃぐしゃに歪めると犬歯を剥きだしにして怒りを露わにし、僕に向かって太い腕を振り被った。


 殴られる――


 既にぼくたちは、取っ組み合いの様相ようそうになっている。

 逃げられない、かわせない――


「ゆうちゃん――!」


 華ちゃんは涙声で叫んだ。


 ぼくは、目は閉じずに歯を食いしばった。

 そして――


 果たして、ぼくは殴られなかった


 その前に店長が、刈谷の右腕を掴んだからだ。


 すると刈谷は背後に振り向きざまに逆の左腕を振るい、店長の顔面に裏拳を入れた。店長は床に転倒した。


「畜生ッ! どいつもこいつもッ!」


 刈谷はぼくを突き飛ばし、裏口から走り去った。


 追いかける余裕はなかった。

 額から血を流して倒れている店長を助ける方が、先だったからだ。


「店長ッ!」


 ぼくは店長に駆け寄り、彼の身体を抱き起こした。


「つつつ……ったく、最近の若い奴は殴る時に手加減しねえな」

「大丈夫ですか? でもどうして……」


 どうして無理に止めたのか、と続けられなかった。


 店長はぼくの代わりに殴られたようなものだ。

 ぼくのくだらない挑発の結果だ。


「馬鹿野郎。お前らに何かあったら、俺が好き勝手にコーヒーの真理を追求できなくなるだろうが……」


 言って、店長は笑った。


「店長……」

「警察だけじゃなくて、救急車も呼んで……ああ、私、私……」


 うつろな声がした。ぼくが振り返ると、華ちゃんは立ち尽くしていた。ぼくは彼女がここまで悲愴な表情を浮かべているところを、未だかつて見たことが無かった。

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