2-6

 それから四日後、週明けの火曜日――


 ぼくは放課後、ティーカップ・ゴーストで仕事に精を出していた。今日はラストまでぼくと店長の二人きりのシフトだ。特にイベントのない平日ならば、これで十分回るのだ。事実、店内は、常連の東大院生、静人さんがMac Bookのキーボードをリズミカルに打鍵だけんしながら論文執筆に取り組んでいるくらいで、他にお客さんはいない。平和なものである。


 あの秘密の土曜日以降、華ちゃんには会っていないが、特に相談もなかったので、ストーカー氏も少しは鳴りを潜めたのかもしれない。


 ぼくが今、気にかけているのは、綾乃先輩の方だ。金曜夜から今日まで、一切の連絡が無かったのだ。ご両親が滞在中である土日のやり取りは無理だとしても、昨日、月曜日に先輩のご両親はイギリスに帰国する予定だったはずだ。綾乃先輩の性格なら、すぐに一報を入れてきそうなものなのだが。


 便りが無いのは良い便り――二人ともそうであることを祈りたい。


 そんなことをつらつらと考えながら、キッチンで皿洗いをしている時だった。


「ゆうちゃんゆうちゃん」


 なんと、華ちゃんの声が聞こえてくるではないか。今日は彼女のシフトは入っていないはずだ。洗い物の手を止め、振り返るが誰もいない。はて幻聴かと思ったが、


「ゆうちゃあん、ねえ、ねえってばあ」


 つっとエプロンの端を掴まれた。視線を宙からやや下げると、


「華ちゃん! どうしたんですか、その顔……」


 そこに、ひどく青褪めた華ちゃんが立っていた。


 華ちゃんは私服姿だった。ティーカップ・ゴーストの玄関には北欧アンティーク調のドアチャイムが取り付けてあるのだが、それが鳴らなかったので、来店したことに気づかなかった。どうやら従業員用の裏口からこっそり入ってきたらしい。


「実は、あのっ、私、マンションっ、行って……っ」


 両手をパントマイムのように盛んに動かし、なかなかの焦燥ぶりである。

 ぼくはグラスに水を注ぎ、華ちゃんに手渡すと、事務所まで手を引いて連れて行った。

 パイプ椅子に座らせて、話をよくよく聞いてみると、


「――部屋のドアに、異常なモノがぶら下げられていたと……?」


 華ちゃんがしどろもどろになりつつ必死に身振り手振りを交えて話した内容を翻訳すると――先週の土曜に泊まった際は、郵便物の確認をし忘れていたため、今日の昼に一人でマンションに行った。ついでに部屋の換気もしておこうと向かったところ、ドアノブに何枚も重ねられたビニール袋がぶら下げられていたらしい。恐ろしくて触れられなかったが、中には赤黒い液体のようなものが入っているようだった。


 動物の死体か――?


「触らなくて正解です。感染の可能性がありますし、警察へ訴える際の証拠にもなりますから」


 汚物の送付は、ストーカーが自らの存在や感情を被害者にアピールする常套手段と聞いたことがある。


 それにしても、


「一気にいやがらせ行為が悪化している……」


 この短期間に、相手は以前より遥かに攻撃的になっている。


「最初、ぽんちゃんに連絡しようと思ったんですけど繋がらなくて、もしぽんちゃんのアパートに戻っても一人だったら怖くて……ゆうちゃんが今日シフト入ってることを覚えていて、ここに来たんです」


 華ちゃんは水を口にして、いくらか落ち着きを取り戻したようだった。


「とにかく華ちゃんが無事でよかった。ですが、これはもう……」


 警察沙汰だ。


「……ぽんちゃんと連絡が着いたら、一緒に警察に相談に行こうと思います」

『警察の方を頼る前に、相手の方が諦めてくれればいいんですけどね。事件になれば、もう相手の方は取り返しがつきませんから……』


 ぼくは華ちゃんがそう言っていたことを思い出した。

 華ちゃんは、優しすぎるのだ。


 けれど、ぼくや綾乃先輩が決して持ち合わせていないその優しさを、ぼくは嫌いではなかった。


 だから。


「華ちゃん。これは華ちゃんが嫌じゃなければなんですが……」


 と、その思いつきを、ぼくは華ちゃんに告げた。

 華ちゃんははじめ少しだけ驚いていたが、やがて深く静かに頷いた。


 *


「まさか、高屋敷さんがストーカーに遭って困っていたなんて……」


 静人さんが、眼鏡の奥の目を丸くさせて言った。


「よく相談してくれたね。なかなか人には言い辛かったでしょう」

「いえ……聞いてくださってありがとうございます」


 つくづく思い切った行動に出たものだと自分でも思う。

 ぼくと華ちゃんは、静人さんに相談することにしたのだ。


 常連さんとは言え、お客さんにこんな相談を持ちかけるのは気が引けたものの、そんなことを考えている場合ではなかった。店内には静人さん一人しかいなかったのも後押しだったかもしれない。


 静人さんはいつもの席でMac Bookのディスプレイを睨みながら、考え事をしているところだった。テーブルにはほかに、アイスコーヒーと店長特製のパストラミサンド、それから論文の参考文献であろう三冊の洋書が積まれていた。


 そこにぼくたちは声をかけたわけだが、静人さんは嫌な顔一つせず、向かいの席に座るように促してくれた。


 そして、今。


「僕は、犯罪心理学という研究の性質上、警察の方とは、よくお会いするんだが……」


 静人さんは、メタルフレームのスクエア・グラスを指で押し上げながら言う。


「結論から言うと、今の段階では自衛を徹底するしかない」

「そう、なんですか……」


 華ちゃんは肩を落とした。ぼくも同じ動作をしていたことだったろう。


「警察に相談しても、あまり意味はないということですか」


 ぼくが問うと、


「意味がないとは言わない。もちろん、警察に行って相談した方が良いのは間違いない。ただ犯人が分からない現状だと警察にできることには限りがあるということだよ」

「そうなんですか?」


 華ちゃんが問うた。


「ああ。今、高屋敷さんが話してくれた被害の中で、ストーカー規制法に該当する行為は二つあった。一つは以前からの度重なる無言電話、もう一つは今日起きたという不審物の送付だ。ストーカー規制法は、過去に、マスコミに騒がれるような凶悪なストーカー事件が発生する度に強化されてる法律で、きちんと罰則規定もあって、懲役や罰金刑に処することもできるし、加害者には、被害者に対する接近禁止命令を出すこともできる。ただ警察による捜査、逮捕がスムーズに進むのは、加害者が判明している時の話なんだ」

「確かに今、ぼくたちは誰が華ちゃんをストーカーしているのか、分からないですね」

「残念なことだが、現段階では、命への危険性や切迫性も低いと捉えられ、警察による積極的な捜査は期待できないと思う。警察は、相当に凶悪な事件でなければ、探偵のように犯人探しまですることはないんだ」

「そんな……」

「今、ストーカー規制法に基づく被害届を出した場合、警察がやってくれることは二つあるだろう。一つは、高屋敷さんの自宅周辺のパトロールの強化。もう一つは、一一〇番緊急通報登録システムへの登録。予め被害内容と被害者の携帯電話番号を紐づけてシステムに登録しておくことで、緊急時に一一〇番があっただけで詳しい内容を聞かなくても警察が現場に急行してくれる」


 静人さんはアイスコーヒーに口をつけ、それから続ける。


「警察がより緊急性を高めて捜査しやすくなるのは、ストーカーが他の刑法に該当するような悪質な犯罪行為をしている場合だね。たとえば、無言電話でなくて脅迫電話だったら刑法二百二十二条の脅迫罪に当たるし、郵便物を盗んで勝手に中身を見ていれば百三十三条、信書開封罪、家や敷地内に無断で侵入していれば百三十条、住居侵入罪になる」

「あっ、なら、一度部屋に……」


 華ちゃんが口を押さえた。


「何か心当たりがあるんですか、華ちゃん?」

「ううん、なんでもないです……」


 静人さんは、華ちゃんの様子を柔和な笑みを絶やさぬまま見つめていたが、


「色々なことが立て続けに起こって大変だったね。辛いとは思うけれど、何が起こったかを時系列順にまとめて記録しておくと、警察に相談する際にも役立つと思うよ」

「はい、そうします……」

「僕で役に立てることがあれば、今後も遠慮なく相談していいからね」


 静人さんはテーブルにあったペーパーナプキンに万年筆で連絡先を書きつけると、華ちゃんに手渡した。


「どうもありがとうございます」

「まあ、僕はどう転んでもボディーガードにはなれないけどね。転ぶ足もないし」静人さんは自分の乗る電動車椅子と、微動だにしない両足を見ながら苦々し気に笑う。「まあそこは彼氏くんであるところの君の出番だな」


 と、言ってぼくの肩を叩いた。


「いえいえ、彼氏じゃないです!」


 ぼくと華ちゃんはハモりつつ両手を振って否定した。

 静人さんは慌てふためくぼくたちを見て笑いながら、


「あと最後に一つだけ言っておいていいかな。僕の見立てでは、犯人は怜悧狡猾な人物だと思う。ここまで、犯人の特定に繋がる手がかりが見えてこないのが、その証拠だ」


 確かに静人さんの言う通りだ――ぼくたちは深く頷いた。


「そんな理性的な犯人が、凶悪な行動に出始めた――となれば、そこには何か理由があるのだろう。心当たりはあるかい?」


 ぼくと華ちゃんは互いに顔を見合わせた。

 きっと考えていることは同じだっただろう。


 *


 その後――

 華ちゃんは、ぽんちゃんと連絡が着き、駅へと向かった。ぼくはティーカップ・ゴーストから駅前の繁華街まで彼女を送った。


 ぼくが郊外に建つ静かな喫茶店に戻ってくると、午後七時を回ったところだった。論文執筆を再開している静人さんのほかには、お客さんは誰もいなかった。


「先ほどは、どうもありがとうございました」と、ぼくは静人さんに頭を下げた。

「そんな畏まる必要はないよ。高屋敷さんにとっても青天の霹靂だったろう」

「本人もそう言ってました……」

「ストーカー被害は、周囲の支えやフォローが大事だからね。僕も、君たちには世話になっているし、何かあったら言ってくれ」


 静人さんは眼鏡の奥の目を細めて、優し気に微笑んだ。

 ああ、やはり静人さんは聖人すぎる……。

 ぼくはこれほどまでに名は体を表すひとに出会ったことはなかった。


「……そういえば、静人さんっていつ頃からティーカップ・ゴーストも来られるようになったんですか」

「去年くらいかな? 別に家や大学に近いわけでもないんだが、散歩してたら偶然通りがかって、それからさ。ここのコーヒーは豆本来の酸味が利いている。苦みの中にほんのりと漂う酸味がいいね」

「そうですよね! ぼくもここに初めて知り合いと来た時から、店長のコーヒーが好きで――」


 その時だった。

 何の前触れも予感もなく、入口のドアチャイムが鳴った。


 ぼくは「いらっしゃいませ!」と挨拶をしながら振り向き――

 入口に向かおうとした足が止まった。


「綾乃先輩……」


 柿原綾乃が立っていた。私服姿だった。裾にレースデザインの入ったノースリーブの白いワンピースに、薄手のデニムジャケットを、袖を通さずに羽織っている。右手には茶革のトートバッグを提げていた。傍目からは大学生で十分に通じるように落ち着いた、しかし可憐な恰好だった。


「こんばんは、ゆうくん。なに? 随分な驚きようだね」

「……珍しいな、と思いまして」


 珍しいどころではない。

 綾乃先輩は、春休みにぼくと訪ねて以来、ティーカップ・ゴーストに足を運んだことはなかったと記憶している。要は今夜が二回目の来店だった。


「へえ? なんだか来ちゃいけなかったみたいだね?」

「そんなことは……こちらへどうぞ」


 と言っても、店内は入口近くの広いテーブル席に静人さんが座るのみで、あとはがらんどうもいいところだ。ぼくは窓際近くのソファ席に綾乃先輩を案内した。


 先輩は優雅に腰を落ち着けると、メニューを眺めながら言う。


「ねえゆうくん、なんでかな? このお店、気のせいか浮気者の匂いがするんだけど?」

「それは完全に気のせいですね」

「ふうん? それでどういう気の迷いだったの?」

「大いなる誤解です、先輩」


 ぼくは背筋をピンと伸ばし、綾乃先輩にかしずく執事の如く、彼女の隣に身じろぎ一つせず立っていた。


 だが同時に、ぼくの心臓は高圧ポンプと化し脳髄に張り巡らされた毛細血管を破かんばかりの勢いで血潮を流し込んでいた。


 考えろ。


 考えろ。


 考えろ。


 なぜだ?


 なぜさっきから、綾乃先輩は、ぼくと華ちゃんの土曜日の出来事に気づいているかのような言動をするのだ――?


 当然、ぼくと華ちゃんの間にやましいことなど欠片一つないことを、ぼく自身は知っている。だが、相手があの綾乃先輩となると話は別である。街の雑踏でぼくの脚に身を摺り寄せてきた野良猫さえも親の仇のように睨み殺す先輩だ。簡単に話が通じるとは思えない。


 だから説明よりも先に、ぼくは推理を開始した。


 ――ああ、そうか。


 危急存亡のときに見舞われていたぼくの脳髄は、およそ十秒足らずで答えを導き出した。

 本日は火曜日、先輩は制服ではなく私服姿、今は彼女の門限を過ぎた午後七時過ぎ――


 つまりは――


 先輩はメニューを左手に持ち、右手で携帯を操作している。突如、ディスプレイに出てきたのは、ぼくと華ちゃんを遠くから写した画像だった。隠し撮りだ。背景は駅前の商店街である。


 そう、先輩が知ったのは、まさに今さっき――ぼくが華ちゃんを駅まで送る場面を目撃したのだ。


「いや、わたしもびっくりしたよ。まさか予備校に行く途中に、ゆうくんの浮気現場に遭遇しちゃうなんてさ」


 そして先輩は予備校に行くことを急遽取り止め、ぼくの後を尾けて――この店を訪ねたのだろう。


「先輩、これには深い事情がありまして、」


 ぼくが言い終わらぬうちに、先輩はメニューから目を外すと、ぼくの顔を見上げて、


「ところで焼殺って人類史上、最も苦痛を伴う殺人方法だそうだけど、知ってた?」

「……いえ、知らないです」

「わたしが身体で教えてあげようか?」

「……できれば遠慮したいです」

「そう。じゃあまた今度。そうしたら、男と女の関係において重要なことを教えてあげるね」

「男と女の関係において重要なこと、ですか?」

「いち。浮気をしない」

「……」

「に。浮気をしない」

「……」

「さん。浮気をしない……」

「先輩、違うんです。決して浮気なんかじゃない。ぼくは、ただ……」

「ただ?」


 先輩は無表情のまま、細い首を傾けた。

 ぼくはそこで言葉に窮した。

 理由は二つある。


 一つ目は、店内でこれ以上の騒ぎは避けたいということだ。今夜は閑散としているとはいえ、店内で、店員が痴話喧嘩も同然のトラブルを起こしていれば、店の品位が落ちる。ティーカップ・ゴーストは、店長が大切にしている店だ。ぼくがその名前を傷つけるわけにはいかない。


 もう一つは、迂闊うかつな弁明が余計な疑義を招きかねないということだ。ここでぼくが慌てて言い訳めいた説明をすれば、綾乃先輩は、ぼくが華ちゃんの家に泊まったことまで知ることになりかねない。いずれは話すべきことだろうが、今この瞬間はタイミングが悪すぎる。射貫くような目をした綾乃先輩の前で、上手くプレゼンできるとも思えない。文字通り、火に油を注ぐことになり――ぼくは中世の魔女狩りのように、誤解による嫌疑を解けないまま、十字架にはりつけにされて業火の焚刑ふんけいに処されるだろう。


 ぼくが押し黙っていると、綾乃先輩は露骨に呆れた顔をして、


「……もういいわ。せっかく来たんだし、わたし、今はここのコーヒーを楽しみたいの」


 言って、ホットのアメリカンコーヒーをオーダーした。

 ぼくが承り、テーブルを離れようとすると、彼女はぼくの背中に向かって呟いた。


「ねえゆうくん。わたしたち、あの日約束したよね? 約束を絶対に守る、約束」


 当然、覚えている。

 しかしそれでもぼくは沈黙を選ぶことにした。

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