2-5
厳正なる審査の結果、夕食はデリバリーピザとなった。
一週間以上、誰もいなかった部屋の冷蔵庫はすっからかんだし、この豪雨の中をスーパーまで買い物に行くのは無理がある。ベッドの隅で毛布を被る華ちゃんに代わり、ぼくが自分の携帯でピザ屋に注文をした。
「こんな世界の終わりのような空模様でも、デリバリーのお兄さんは命がけで私たちにピザを届けてくれるんですね……。私、もうホラー映画を観ながら、『安全圏にいる自分は幸せごっこ』なんてできません。
「いやそこまで猛省しなくても……」
華ちゃんはベッドの隅で、毛布を被り体育座りで縮こまっている。さっきまでガラステーブルの下に避難していたのだが、その後、だるまさんが転んだのように、雷鳴が響かない間だけ
「そ、そうだ……ぽんちゃんにも連絡しておかないといけません。帰る予定が無くなったのだから、心配しています」
華ちゃんは手に握りしめていた携帯で、電話を始めた。すぐに相手が出たようで、安堵した様子で話し始めたが――やがて、その携帯をぼくに差し出した。
「ぽんちゃんが、ゆうちゃんにも挨拶しておきたいと」
確かにそれはそうだ。相手の立場で考えてみれば、女友達に近づく謎の男子高校生Xの正体が気になるにも程があろう。ぼくは携帯を受け取った。
『よう、私がぽんちゃんだ。ハジメマシテだよな?』
うわあ、全くほんわかしてねえ。
一瞬、男性かと思ってしまうような、ハスキーで凛々しい声色だ。こうなると、ぽんちゃんという可愛らしいニックネームの由来が気になってくる。
「はじめまして、ぼくは……」
ぼくは名前を名乗った。
『へえ、ゆうちゃんね。君が案外、ストーカーだったりして』
「もしそうなら話が早くて助かるんですけどね」
『面白いな、君は』携帯から、くつくつと低い笑い声が聞こえてくる。『華から聞いてるよ、まだ高校一年生なんだろう。こんな厄介ごとに巻き込んでしまって、悪いと思っている』
「ぽんちゃんさんが謝ることではないです。ぼくも、華ちゃんにはいつもお世話になっているので」
『今夜は華をよろしく。
「ぼくの現況にそれほど的確な
視界の端に映る華ちゃんは、一体いつの間にやら、怪獣着ぐるみパジャマに着替えていた。さっきぼくが地中深くに埋めたはずのトレジャーがベッドの上に堂々と散乱している。このひとは、少しばかり無防備が過ぎるのではないだろうか。
ぽんちゃんとの電話を切ってしばらくすると、チャイムが鳴った。既に華ちゃんはパジャマなので、ぼくがエントランスまで行き、若い男の店員からピザケースを受け取る。和風チキンやらシーフードのトッピングが盛り込まれたLサイズのピザだ。そこに炭酸のペットボトルと、付け合わせのポテトにフライドチキンまで添えられれば宴の準備は万端だ。
「よーしっ、では一週間ぶりの我が家に乾杯です!!」
ぼくたちはコーラが注がれたグラスを天井に掲げ乾杯をした。
外では豪雨が降り続いているが、華ちゃんはテレビのバラエティ番組を観ながら、けたけた笑っている。ぼくも笑う。ひな壇芸人たちの騒がしいガヤが雨音をかき消した。
あれ……なんだこの状況。
ぼくはふと我に返る。ぼくはなぜバイト先の先輩女子大生の家で
綾乃先輩を欺くようなことをしてまで――
ぼくは馬鹿なのだろうか。
しかし、
「本当にゆうちゃんがいてくれてよかった。私、こんなに楽しく夕ごはんを食べたの、久しぶりですよう」
華ちゃんはしみじみと言った。
思えば――ぼくもそうだった。
ぼくもこんな穏やかでのんびりとした夕食を食べたことは、久しくなかった。いつ以来なのだろう。もうそれも思い出せない。
「ゆうちゃん?」
華ちゃんがぼくの顔を覗きこもうとしてきた。ぼくは思わず顔をそらした。なぜか今、見られたくなかった。
「……華ちゃん、前にご実家はY県だと言っていましたよね。一人暮らしでこの街を選んだのには何か理由があるんですか」
ぼくたちの住む市は、K大学から少し離れている。実家通いならともかく、K大学に通うために一人暮らしするには微妙な立地だ。
「ゆうちゃん、うーん、実にいい質問ですねえ」華ちゃんは鑑定家のように頷いて言った。「私、小学生までこの街に住んでいたんですよ」
「そうだったんですか?」
「はい。まだ祖父母が元気だった頃は、私と両親も合わせた五人で、祖父母の家に住んでいたんです」華ちゃんは携帯の地図アプリを起動させた。明るい声で住所を諳んじて入力しながら、ぼくにディスプレイを見せる。「ほら、この辺りですね」
華ちゃんの小さい指先が差しているのは、県内でも、特に森と田畑の多いのどかな半島地区だった。
「小さい頃、近くの公園を走り回ってたのをよく覚えてます。今でも私、たまに庭の草むしりに行ってるんですよ。建物の方は人が使っていないから、廃墟同然なんですけどね。父母が取り壊すのは忍びないと言っていて、そのままにしてあるんです」
Y県に引っ越した理由は、祖父母の
「友達と離れ離れになっちゃうから、当時の私は反対したんですけど、母がどうしても父について行きたいって聞かなくて。母は昔から父のことばっかりで、正直嫌いだったんですが、最近ようやく母の気持ちもわかるようになってきました。私、父母のことが大好きなんですよ」
それは素敵なことだ、本当に。
家族というのはきっと、人生という綱渡りゲームにおける命綱のような役割を持っていて、それがあるかないかで生きていく重さは随分と違うのだということは想像に難くない。きっと恐らくそういうものなのだろう。ぼくにとっては憶測の域を出ない概念である。
「ねえゆうちゃん、愛って何だと思いますか」
「愛ですか……」
まさかバイト先の女子大生と愛について語らうことになるとは今朝までは
ここはいっそ「五十音字の最初の二文字のことでしょうね」などと
「たとえ、決して相手に伝わらないことを知っていても想い続けることも、愛なのでしょうか?」
「それは……」ストーカー氏のことを言っているのだろうか。「いろんな愛のかたちがあるので一概に言えませんが、想うだけなら愛であれど罪にはならないと思いますが」
愛が、蛍の発光のように人が自らの内側から生み出す価値の一つなのだとしたら、それが互いに共鳴も共演もできないままに線香花火の如く虚しく散り落ちることがあったとしても、遺る何かは必ずあるはずで、ならばそれも悪くないと軽く笑い飛ばせるような気がする。それがたとえば悪魔との契約のような条件付きの愛であったとしても。
ぼくには心当たりがあった。
「そっかぁ……。私、それを聞いてなんだか安心してしまいました」
「何よりです」
華ちゃんがにこりと笑ったのを見て、ぼくも安堵した。
「ところでぇ、ゆうちゃんって彼女さんがいますよね?」
「さあ、何のことでしょうね」
「惚けたところで私の目と記憶はごまかせませんよ! ゆうちゃんが初めてお客さんとして来店したときに、年上の女性と一緒に来られてましたよね」
その通りだった。高校入学前の春休み、ぼくと綾乃先輩はティーカップ・ゴーストでアフタヌーンティーを楽しんだことがある。その時に店長が出してくれた、白鳥のラテアートが描かれた極上のカプチーノに惹かれて働くことを決めたのだ。
「あの時、私がオーダーを取ったんですが、ゆうちゃんは覚えてないみたいですね? お連れの方、お姉さんでもなければ、ご友人でもなさそうな不思議な距離感で、まるで付き合いたての恋人たちのようでしたよ、ふふふ」
なんだか華ちゃんの様子がおかしい。頬が紅潮し、目が座っている。
よもや、コーラで
「い、いつの間にお酒が……」
傍目からは分からなかったが、ウイスキーをコーラで割っていたらしい。自分の家だから好きに楽しめばいいのだが、この状況では無防備を越えてマイナス防備なのではなかろうか。
「なんですかあ? 私がお酒を飲んじゃいけないんですかあ?」華ちゃんはずずいとテーブルを乗り出してきた。「私はね、こう見えて二十歳なんですよ!」
「そうだったんですね……」
ぼくは素直に驚いていた。実際のところ、たいていの人間は、華ちゃんが二十歳という厳然たる事実を受け入れられないだろう。むしろ、「私はね、このとおり飛び級して大学に入った十歳なんですよ!」と言われた方がまだ真実味がある。
「さあゆうちゃん、吐くのです! ぶちまけるのです! あの女の人と、ゆうちゃんは一体どういう関係なのです! 洗いざらい吐けなのです!」
華ちゃんはぼくの隣ににじり寄ってきた。近い。つよい。その小さな手でこのまま胸倉を掴みかかってかねん勢いである。
「あのひとは、ぼくにとって……」
さて、どう
ぼくが泥酔女子大生から顔を逸らして思案していると、
「うううううううううううう……」
華ちゃんが口を押さえた。
「洗いざらい吐けと言った、あなたが吐くんですか!」
その後――
ぼくは、自らの発言を愚直にも有言実行した華ちゃんをトイレで介抱した。そのまま華ちゃんは風呂に入り、ぼくは部屋で宴の後始末だ。片付けが終わってから、ぼくも簡単にシャワーだけお借りした。
そして、ようやく就寝と
熱い湯を浴びてもまったく酔いが抜けていない、ふにゃふにゃに
電気を消し、部屋が闇で満ちると、華ちゃんの寝息が聞こえてきた。
まったくもう――
ぼくはソファの肘置きを枕代わりにして仰向けになっている。星など一つも見えるわけのない暗い天井を眺めながら嘆息する。
「ストーカーね……」
そこまでの悪党ではないかもしれない――などと思うのは甘い考えか。あんな高価そうな熊のぬいぐるみをいくつも贈るくらいだ。重度のファンと言い換えてもいいかもしれない。
「いや、これはぼくの願望か……」
分かっている。なんて愚考だ。
毎晩、暗黒を抱いて眠るのは、ぼくや綾乃先輩だけで十分なのだと――そう思いたいだけなのだろう。華ちゃんには、汚泥に塗れた
「うう……!」
「華ちゃん?」
華ちゃんの辛そうな喘ぎに、ぼくは起き上がりベッドへ向かう。
「もう食べられないよお……」華ちゃんは目を閉じながら、へらへらと笑っている。「ああっそうです、デザートピザは別腹なのです……」
「夢の中でもピザ三昧ですか……」
ぼくは、華ちゃんの柔らかな頬を人さし指で撫でた。マシュマロのような感触だった。押すたびに幸福が滲み出てくるようで、いつまでも触れていたくなる。
『木乃伊取りが木乃伊にならないように』
ぽんちゃんの言葉を思い出した。
「……なれませんよ、ぼくには」
あるいは、ぼくが普通の、まっとうな、人間らしい男子高校生であったなら――華ちゃんのような日なたの女性に恋をしただろうか。
――いや、考えても詮無いことだ。
ぼくは再びソファに戻り、華ちゃんのベッドから顔を背けるように横になった。
今夜は、いつもより少しだけ良く眠れそうな気がする。
浅い眠りの中で、幾度か雷鳴が轟き、カーテンが閉められた窓の外で白い光が瞬いた。
そのフラッシュの中に、人の影を見たような気がするのは、きっと寝惚けたぼくの気のせいだろう。
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