2-4

 これは浮気ではない……。


 ――命を賭した人助けである。


 土曜日の午後三時すぎ。ぼくはとある駅前で彼女を待っていた。初めて降りる駅だった。ぼくが高校通学に使っている路線だが、高校やぼくの自宅よりも都市部に位置する。駅前広場にはタクシー乗り場がある。近くにはアーケード商店街が連なり、派手過ぎない穏やかな街並みが広がっている。


「コレハウワキデハナイコレハウワキデハナイコレハウワキデハナイ……」


 ぼくが念仏の如く唱えていると、


「ゆうちゃん?」

「え?」


 振り返ると、そこに華ちゃんが立っていた。今しがた電車が着いたのだろう、華ちゃん以外にも、多くの人々が駅の改札口から流れ出てきた。


「お待たせしちゃいました?」


 今日の華ちゃんは、ネイビーのドット柄フレアスカートにカナリアイエローの半袖ニットだった。先日のバイト帰りよりもずっと大人っぽい恰好である。


「いえまったく。ぼくも一本前の電車で来たところですよ。華ちゃんは、大学からのお帰りですか」

「そうなんですよう。私、今期は土曜日にも講義を取ってしまって。面倒で仕方ないんですけど、まだ一回もずる休みしてません。すごくないですか」


 ふふんと誇らしげに言う華ちゃんは、いつもどおりの雰囲気だ。その輝く瞳を見ていると「はい、全然すごくないです」とは口が裂けても言えなくなる。


 華ちゃんのマンションは、駅から平地を歩いて七、八分のところにあった。道途中で、森の動物たちが経営していそうな可愛らしい外装のパティスリーが見えると、「そうだ、おやつの時間ですね!」と華ちゃんが盛んに言うものだから、マンションに辿り着いた時には、ぼくは右手に大きなケーキボックスを提げていた。


 華ちゃんがエントランスでオートロックキーを開け、ぼくたちはエレベーターで四階に着いた。外廊下を歩いて、一番奥が華ちゃんの部屋だった。


「あれ……」


 違和感が、ドアの前に鎮座していた。


 ラッピングバッグ――


 ドアノブに華やかなラッピングバッグの入った、半透明のビニール袋がくくりつけられている。


「な、何なんでしょうね、これは……」


 ぼくがいぶかしんでいると、


「ああ、またですか……。とりあえず中に入りましょうか」


 華ちゃんに驚いた様子はないが、呆れているようには見える。


 ドアが開かれた先――玄関には女ものの靴が整然と並び、サイドの収納棚の上には大きな熊のぬいぐるみが二つ置かれていた。有名なアメリカのテーマパークのキャラクターだ。華ちゃんが、このキャラクターのTシャツを着ているところも、何度か見たことがある。


「可愛いですね。もらいものですか」

「まあ、そうですね……今日で三つ目になりましたけどね」

「え……」


 ぼくは自分の左手に持ったラッピングバッグを見た。


「週に一回くらいの頻度で、こういうことがあるんです。最初は、気味が悪くて嫌でした。でも、モノに罪はないと思って、玄関に置いておくことにしました。ゆうちゃん、中身を出して適当に並べておいてくれますか。わたしは、お茶を淹れますね」


 言って、華ちゃんはキッチンへと向かった。

 ぼくはラッピングバッグを開封し、ぬいぐるみを出す。小洒落た洋服を着たテディベアだ。縫製が細かい凝った作りで、いくらするのか見当もつかなかった。


 三匹並んだが、すべて衣装が異なっている。元気なセーラー服に、おやすみパジャマ服、そして今回のものは――純白のウェディングドレスだった。


「なんだか、これ……」


 少し気味が悪いな――そう思った時だった。

 背後のキッチンから華ちゃんの声が飛んできて、ぼくの思考はかき消される。


「テレビでも点けててくださいー。狭いところですが、ゆっくりしてね」

「ああ、はい。ではおじゃまします……」


 白とピンクを基調にした清潔感のある部屋だった。中心に白い丸型カーペットとガラステーブル、革のソファ。壁際には小ぶりな白いデスク。カーテンとベッドシーツはピンクの花柄で、ベッドの上にはハート型のクッションが二つ並んでいた。白い壁には風景画のカレンダーがかかっており、それ以外にも無数の画鋲が無造作に刺さっている。最近まで、写真やポストカードでも飾っていたのだろうか。隅の本棚には、大学の教科書が並んでいた。線形代数、ミクロ経済学、経済史入門、計量経済学概論、どれもぼくにはさっぱりだ。変わり種として植物図鑑もあった。児童文学研究会サークルで使うのだろうか。


 大学生の一人暮らしにしては広い部屋だろう。綾乃先輩の部屋には及ばなくても、ぼくの部屋の倍平方メートルはありそうだ。

 薄型テレビを点けようと近づいた時――ぼくはそれに気づいてしまった。


「これは……」

「お待たせしましたあ。紅茶をれたのでおやつの時間にしましょう!」


 お盆にケーキ皿とティーセットを載せてきた華ちゃんは、ぼくの手元を見た。


「ゆうちゃん、ああっ、それは!」


 そう、今ぼくの手に握られているのは――ぼくと綾乃先輩が本日午前に鑑賞予定だった今夏最恐のホラー映画――その記念すべき第一作目のブルーレイディスクである。


「もしかしてゆうちゃん、ホラー好きなんですか!」

「いや……」


 綾乃先輩に強制予習をさせられていたので、反射で思わず手に取ってしまっただけである。


「その作品は泣けるんでお薦めですよお、よかったら一緒に観ませんか?」

「え……泣けるんですか?」


 おかしいな、ぼくが予習したときは凄惨なシーンが連続し、めまいと吐き気に耐えるのに必死で、とても泣いている余裕はなかったのだが。


「観るのはいいですけど……これからケーキを食べるんじゃないですか」


 とても午後のアフタヌーンティーに合うとは思えない。


「おっとゆうちゃん、まだまだビギナーですね。実はケーキとホラーは合うんですよ」

「そうなんですか?」


 新説だった。その方面においてはマニアと思われる綾乃先輩からでさえ、そんな奇説は聞いたことが無い。


「玄人は、危険な目に遭う主人公たちを眺めながら美味しいケーキを食べることによって、たまらなく満たされるようになるのです。ああー彼らは今まさに命の危機に瀕しているけど、私は安全なところにいてのんべんだらりとしていられるんだ、ああー幸福だなあって」

「なんですかその楽しみ方は。玄人というか人の命を愚弄ぐろうしてますよ」


 しかし。

 まさか華ちゃんがホラー愛好家だったとは、まったくの予想外だった。綾乃先輩と引き合わせたら、意外と気が合うのかもしれない。混ぜるな危険、有毒ガス大発生! の恐れもありそうだが。


「まま、ものはためしでっ。どうぞゆうちゃん!」


 ガラステーブルに載せられたケーキは、なんともおあつらえ向きなことにベリータルトで、紅茶はディンブラなのだった。赤い。どちらも目を刺すほどに、赤い。


 ええいままよ――


「はいっ、それじゃあいただきますっ」


 さあ! 上映開始だ――


 そこから、たっぷりとっぷりと二時間が経過した。


 ぼくは死んだ。


「ゆ、ゆうちゃん? は、白骨化してる!?」


 わずか二時間で、ぼくの心は限界まで摩耗し火星地表の砂礫されきの如く風化していた。


 先日、予習という指令の下に一度は鑑賞したはずなのに、まるで慣れない。それどころか、被る精神的ダメージがすこぶる増している。食べたものの味はまったく覚えていない。


 特に、主人公が気の狂った恋人に拉致され山小屋に監禁されて、めくるめく拷問凌辱りょうじょくを受けるシーンに――以前より妙なリアリティを感じるようになっていた。思い返すまでもなく心当たりはあった。


「だいじょうぶですか、ゆうちゃん。もしかして本当はホラーだめだったの……?」

「何のこれしき。ぼくは男の子ですよ……」

「そんな生まれたての小鹿のようなぷるぷるした状態で言われても説得力ありませんよ! ちょっと一回脱がせて確かめてみてもいいですか?」

「疑ってるのは性別の方なんですか!?」

「冗談です」華ちゃんはぺろりと舌を出すと、「さてそろそろわたしは、ぽんちゃんのうちへもっていく荷物の準備をするので、性別不定のゆうちゃんはベッドでごろごろしてていいですよ」

「そんな住所不定のような言い方で言わなくても……」


 そも性別不定というと、まるで無性動物のようである。

 そうか、ぼくはプラナリアだったのか。


「ぼくはだいじょうぶですから。お気遣いなく」

「だいじょばない! 遠慮は過ぎたら無遠慮! 気にしないでいいですから」


 ぼくは無念にも華ちゃんのベッドに身を横たえられた。

 花柄のベッドシーツからは、華ちゃんの香りがする。明るい日差しが差し込む静かな森を散歩しているような安心感のある香りに、ぼくは束の間、微睡んだ。


 気づかぬうちに、ハート型クッションの下に手を差し込んでいたらしい――その手が、妙な固さのある物体に触れた。

 まさか――


 ぼくの手の中には、黒のレースに金の刺繍の下着が握られていた。


「なっ……」


 小ぶりだった。ぼくは何事もなかったかのように、森の奥深くに再びそのトレジャーを埋めた。


「ゆうちゃん?」

「はい! 申し訳ございません!」

「え!? なにごとですか?」


 振り向くと、華ちゃんは少し心配そうな顔をしていた。

 ぼくは慌てたそぶりを見せないようにしつつ、


「いえ、なんでも……。華ちゃんは準備完了ですか」

「はい。荷物はまとめたのですが……いつの間にか、雨が降ってきちゃいました」


 ぼくはベランダに続く大窓に目をやった。カーテンの隙間から、灰色の空が号泣ごうきゅうしていた。窓の外が二度瞬いたかと思うと、少し遅れて轟音が響く。「ひゃあうっ」同時に小さな悲鳴もあがる。


「雷雨か、困りましたね」雨脚あまあしも強いし、夏特有の豪雨に見舞われそうだ。「それにしても、華ちゃんって、雷が苦手だったんですね。初めて知りました」

「ま、まったく。ゆ、ゆうちゃんたら、女の子みたいに可愛い悲鳴を上げて……」

「え!? いや、今の悲鳴はぼくじゃなくて華ちゃんですよね!?」

「違いますよ?」華ちゃんはいつの間にかガラステーブルの下のわずかなスペースに入り込んでいた。「怖くないですよ? ホラー映画通の私を怖がらせるなんて、相当なものですよ? ええ怖がってないです。そもそも私が雷を怖がる合理的な理由はないです」

「頭と身体が一致してませんよ!?」


 華ちゃんは少し驚いた顔をしたが、すぐに思案げになり、


「……ゆうちゃん、私にたった一つの冴えた名案があります。聞いてくれますか」

「なんでしょう」


 華ちゃんは息を大きく吸い込むと、


「今夜、私たちはここに泊まることにします」


 と高らかに宣言した。


 再び、外が明るく光る。大気を揺るがすような爆音が続く。


「ぎゃーっ」

「やっぱり雷が怖いんですね」

「こ、怖くないですってばあ!」

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