2-2

 今宵もティーカップ・ゴーストは平穏無事にのれんを下ろした。


 すっかり慣れた閉店作業をしながら、ぼくは携帯のメッセージで、綾乃先輩と週末土日の予定を検討しているところだった。今夏話題のホラー映画か、ちまたの一部で流行中という世界の犯罪絵画展のどちらを鑑賞するかで綾乃先輩は迷っていた。


『どちらも捨て難いなあ。夏と言えば絶叫と鮮血の季節だからねえ』

『そんな修羅しゅらのような季節を過ごしている女子高生は、全国に綾乃先輩くらいしかいないと思いますけど』

『決めた! 午前に映画で、午後は美術館。これしかない。何しろ今年は私たちにとって、最後の夏だからね』

「……」


 最期の、夏か。

 ぼくが返信に迷い、無言で携帯を見つめている時だった。


「ゆうちゃんゆうちゃん」


 ふいに背後から声がする。振り向くと誰もいない。すわ幽霊かと思ったが、


「そんなわけないです。勝手に幽霊にしないでくださいよ」


 心まで読まれている。視線を宙空からやや下げると、少しむくれた華ちゃんが立っていた。


「ゆうちゃん、ちょっといいですか」

「何ですか、改まって」

「今夜、少し時間をもらってもいいですか。ゆうちゃんに相談したいことがあって」

「もちろん、構いませんが……」

「ありがとうございます。では着替えが終わったらいつものテーブルで」


 華ちゃんはそそくさとホールの片づけに戻っていった。その後ろ姿はいつにも増して縮んでいるように見える。


 珍しいことだ。背格好こそ兄と妹のようだが、ぼくと華ちゃんは基本的には先輩後輩の間柄で、長幼ちょうようの序が成り立っている。バイトも勉強も教えてもらうことこそあれ、教えることなどこれまで全くなかった。


 いったいどんな相談事なのだろう。ぼくのような一山いくらの男子高校生が、花の女子大生にアドヴァイスできることなど、高が知れている。


 ああ、一つだけあるかもしれない。

 たとえば死神に魅入られた際の振る舞い方なんてどうだろう。


 一度上がってしまった舞台の上で、エンディングまでにどれだけ無様なダンスを踊れるか――それなら教えてあげられるのかもしれない。

 この五年間のぼくの生き様は、まさにそうだ。


 *


「ストーカー、ですか?」

「はい……」


 華ちゃんは、なぜだか恥ずかしげに視線をさまよわせながら、首を縦に振った。


「華ちゃんに……」

「ええ……」

「ストーカー……」

「別に殊更ことさら強調しないでいいですう……」


 華ちゃんはすっかりテーブルに突っ伏すようにして、俯いてしまった。

 だが思わず口に出して反芻してしまうほどに、想像だにしない取り合わせだったのだ。


 春のひなたのような香りがして夏の木漏こもれ日のように優しく笑う、底抜けに明るい華ちゃんと、陰気の顕現けんげんのようなストーカーという存在は、どうつくろっても縫製ほうせいできないであろう異様で鎮具破具ちぐはぐな組み合わせだ。光あれと神がのたまった時に闇が生まれたように、ストーカーもまた、原始の太陽のように明るい女性に惹かれるさだめなのだろうか。


 ぼくは、身の回りの女の子を思い返す。

 たとえば、ぼくの剣呑けんのんな幼馴染である坂井久遠をストーカー氏がつけ狙う姿は容易に想像できた。細い手足にあどけない童顔を備えた、黒の似合う大人しそうな容姿は、一見すると、その性格とは裏腹にストーカー好みの陰影をまとっているように思う。


 あるいは柿原綾乃にストーカーがいたとして、ぼくは素直に首肯しゅこうできないまでも、きっと難なく腑に落ちてしまうのだろう。十七歳の女子高生にして美の体現者と呼んでも差し支えない容姿を持つ綾乃先輩は、改めて紙幅しふくを割いて説明するまでもなく、それはまあよくモテる。その正体は、ブラックホールの如き暗黒星あんこくせいが全年代好感度ナンバーワンの女子高生の生皮を被って擬態ぎたいしているだけと知るのは――ぼくくらいのものだ、たぶん。


 閑話休題。


「……それで、華ちゃんは先週から友人の家に泊まっているというわけですね」

「はい。今は、自分のマンションには帰っていません」

「言いづらいとは思うのですが、具体的にストーカーからどんな被害を受けているんですか」


 華ちゃんは静かに息を吸い込んで、


「……はじめは夜道で奇妙な視線を感じたくらいでした。けれど、だんだん無言電話が来るようになったり、変な写真がポストに入っていたりするようになって……」

「変な写真?」

「なんか、隠し撮りみたいな……私が街を歩くところとか、ベランダで洗濯物を取り込むところが撮られてて……」

「それは嫌ですね……」


 さぞ身の危険を感じることだろう。

 と思ったものの、ぼくもまた、似たようなことを綾乃先輩にやられたことがあると気が付く。身の危険を感じるべきなのは、ぼくの方かもしれない。


「犯人の目星はついているんですか」

「ぽんちゃんは、大学で語学のクラスが同じだった刈谷かりやくんなんじゃないかって……」

「ぽんちゃん?」

「サークルの友達です。あ、私は児童文学研究会に入ってます」


 児童文学研究会――

 そのえもいわれぬ華ちゃん的な響きに、何故かぼくは安堵していた。ぽんちゃんさんなる人物も、きっと華ちゃんのご学友のイメージにピッタリ嵌まるような、ほんわかした感じのいいひとなのだろう。


「とにかく、警察の方を頼る前に相手の方が諦めてくれればいいんですけどね。事件になれば、もう取り返しがつきません」華ちゃんは、悩まし気にしつつも、「それで今、ゆうちゃんにお願いしたいことがあって……」


 と、探るような上目遣いで言った。


「華ちゃんのお願いごとなら、何でもやります」


 口から出まかせではない。真実、そう思っている。


「今週の土曜日、付き合ってほしいんです。服が足りなくなってしまって、一度自分のマンションに戻りたいのですが、一人じゃ不安で……」

「ど、土曜ですか……」


 まさか、何でもやりますと言った五行後――否、五秒後に前言撤回する羽目に陥るとは思ってもみなかった。


 土曜日は朝から今夏最恐のホラー映画を鑑賞し、午後には世界中から蒐集された殺人絵画を品評するという一大イベントが待ち受けており、ぼくにそれをキャンセルする術はないのだ。


「最初は、ぽんちゃんにお願いしようと思っていたんですが、土曜はあいにく一日中バイトがあるそうなんです。ゆうちゃんにお願いできて本当に良かったです」


 華ちゃんは屈託のない笑顔で言った。

 罪悪感が大洪水のようにぼくの胸に押し寄せる。ノアではなく箱舟も持たないぼくにこの心の荒波はやり過ごせない。自然、逃げるように口から洩れだしたのは、情けないほど単純な断りの文句だった。


「華ちゃん、実はその日はぼくも……」


 その瞬間だった。

 ぼくの携帯に、一通のメッセージが受信した。


『ごめんゆうくん。土曜日、会えなくなっちゃった』

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