1-9

「……したがって、ヘロンの公式は次のように導出される」


 チョークが黒板を叩くコツコツという音だけが教室内に響いている。


 黒板に長大で卦体けったいな数式が羅列されていく。生徒たちは理解が追いつかず、板書で精いっぱいだ。教室の天井は生徒たちの疑問符で雲ができている。


 しかしぼくは――

 これ、華せんせーの深夜の個別指導で習ったところだ……!


 鼻歌混じりだった。何せ、左手が自動筆記のごとく解法をノートに書きつけていくのだ。高屋敷ゼミ高校講座、恐るべし。


 そんな時だった。


「なあ、人食い人形の館ってうわさ、知ってるか」


 ぼくの集中力は、阿呆あほうな質問によって脆くも削がれる。

 静かな午後の教室で、後ろの席の阿久津が囁いた。


「知らないし、興味もない」

「まあそう言うなって。うちの兄貴が今度そこに肝試しに行くんだけどさ……」

「赫い目の女の次は、人食い人形か。いったいうちの街はどうなってるんだよ。オカルトで町おこしでもする気なのか」

「赫い目の女か。あったね、そういうのも。最近急に聞かなくなったなあ」


 都市伝説もフォークロアも所詮、噂は噂。七十五日の儚い寿命を迎えれば、お役目御免とばかりに次の奇譚きたんに居場所を譲るのが習わしのようだ。


 だからそれは、唯の気まぐれだったのだろう。

 ぼくが、あの山小屋の隅に転がった哀れな人形を思い出したのは。


「阿久津、知ってるか。赫い目の女の正体はマネキンだったんだ」

「え? 何それ、詳しく」

「女のマネキンを深夜に人気のない道に転がしておく。通りがかりに、気になって助けに来た人間を後ろから襲う――そういう小賢しい悪人の所業が廻り回って噂になったんだよ」

「マジで? それってどこから聞いた情報だよ? まさかゆう、お前の作り話じゃないだろうな?」

「さあね」

「なあゆう、教えろっての」

「阿久津! 立て!」


 鋭い声が飛んできた。教壇に立つ数学教師――下野がぼくたちを睨みつけていた。


「おい阿久津、無駄口を叩く暇があるのなら、この公式の証明は出来るな? 前に出て解いてみろ」

「うっへ、すみませーん。じぇんじぇんわかりませーん」


 愚痴無智ぐちむちすぎる阿久津の返答に、教室からは失笑が漏れた。


「なら、黙って聞いていることだ。数学は真剣に向き合わなければ面白さが分かり辛いものだ。忘れるな」

「ほーい」


 阿久津が着席した。小声でぼやく。


「高谷の時は楽な授業だったのになあ……」


 前任の数学教師――高谷は、先月退職した。


 何でも退職の際は、ろくに出社もせず電話で伝えてそれっきりだったとか。最近の若い人間はまともに退職届も出せないのかと、中年の教師が授業中に零していたことを思い出す。


「まあ高谷っていつもオドオドしてたくせに目つきがキモくて女子人気も最低だったし、今の下野の方がマシか……」

「案外、痴漢でもして捕まってるのかもしれないな」


 ぼくが呟くと、


「いかにもやりそう。それマジでリアリティあるわ。もうアイツの退職理由は痴漢だったってことでいいんじゃね?」


 阿久津が笑う。


「阿久津ッ! 静かにしろッ!」

「うひっ、すみませーん!」


 流言りゅうげん蜚語ひごとは言ったもので。

 こうして新たな噂が生まれては消えていくのだろう。


 ぼくは、綾乃先輩とのカフェでの会話のひとかけらを思い出していた。

 前に赫い目の女が流行った頃は、十年も前のことだったと――

 あの頃も、彼はこの街に住んでいたのだろうか。


 そういえば。

 あの夜、綾乃先輩に一つだけ言い忘れたことがあった。


『そんなに人殺しと逢ってみたかったのなら、ぼくのクラスで数学の授業を受けてみればよかったのに』


 と。


 ≪第1話 赫い目の女 了≫

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