1-8

 ぼくが囚われていた場所は、粗末な山小屋の地下室だった。


 外は未だ暗い。

 小屋の傍には、無人の黒いワンボックスカーが停まっていた。ぼくを拉致らちしてきたクルマだろう。

 その隣には、獰猛どうもうな肉食獣が厳命げんめいに従ってたたずむように大型バイクが停まっていた。黒尽くめはまたがってエンジンをかけると、メットインから取り出したヘルメットをぼくに投げつけた。


 小屋から続く道は未整備でひどく尻が揺れた。途中、立ち入り禁止の札が提げられたロープを三度見たがすべて切られていた。


 ――ぼくは、生きているのか。


 まるで実感がない。

 ぼくは既に殺されていて幽霊になった、この黒尽くめは、ぼくを冥府めいふに導く死神である――と言われた方が、すんなりと腑に落ちる。


 バイクは獣道を経て、山道を下る。すれ違うクルマは無かった。

 黒尽くめとぼくの間に言葉はなかった。


 国道まで来ると、道沿いにぽつねんとコンビニが建っていた。無人の駐車場に入る。黒尽くめはフルフェイスのまま店内に入った。

 傍から見たら深夜のコンビニ強盗そのものだが……。

 と思うのも束の間、何事もなく店から出てきた黒尽くめはぼくにビニール袋を投げる。


「Tシャツ……?」


 白のVネックシャツだった。


「いや、その恰好でどうやって帰るのさ」


 おっしゃる通りですね。

 ぼくは自分のあられもない胸元を見た。

 大鋏でズタズタに切り裂かれて――開襟かいきんシャツ改め開襟カットソーにも程がある。素肌に触れると文字通り心底冷えていた。


 これではどこにも帰れない。

 元より、ぼくに帰りたい場所など最初から無いのだが。


 しかしそれにしたって、だ。

 黒尽くめの口調は、いやらしいほどにあっけらかんとしたものだった。

 たった今、地獄の釜を覗き、その釜を完膚なきまでに破壊し尽くしてきた人間の発言とは思えない。


「そろそろフルフェイスくらいは、お終いでいいのではないですか」ぼくはボロを脱ぎ捨てながらいう。「そのままコンビニに入った時は、止めようか迷いましたよ」

「だね。これ暑いし」


 そりゃあ、あれだけ暴れ尽くせば血潮が蒸発するくらい熱かったでしょうね。

 黒尽くめは漆黒のフルフェイスを外した。


「ゆうくんは、どこでどうして私だって気づいたのさ」


 柿原綾乃は、汗で頬に張り付いたダークブラウンの髪を整えながら言った。


「綾乃先輩のことなら、何だって知っているので」

「そこまで曇り一点もなく言われると、少しどきっとするね」


 先輩が茶化ちゃかした。

 心外だ。ぼくはいたって本気なのだが。


「綾乃先輩こそ、どうしてぼくの居場所が分かったのですか」

「そりゃわたしだって、ゆうくんのことを四六時中どころか一日四十八時間は考えてるからね」


 答えになっていない。

 ぼくが返答せずにいると先輩は苦笑いしつつ、


「いや冗談だよ。二十三時頃に電話したけど、上手くかからなかったでしょう。それで心配になって近くまで迎えに来たんだ。そこで、ゆうくんが男にさらわれるところを偶々見かけたというわけ」

「闇ち同然の格好で迎えに来たんですか?」


 今夜の先輩は語るに落ちている。

 願わくばもっと大胆不敵に細心翼翼よくよくに、ぼくを欺いて欲しいものだ。


「先輩がこれまでぼくにプレゼントしてくれた物のどれか……恐らくこの時計にGPSがついているのでは?」


 卒業祝に綾乃先輩からもらった時計。メカニカルで男っぽいのに洒落しゃれっ気があって「ゆうくんに良く似合う」と先輩が言ってくれた時計。

 ぼくは左腕に嵌めた腕時計を右手で強く握った。そのまま握り潰してしまえたら良かった。


「ぼくは、あなたにこの時計をもらってから、ずっと監視されていたわけか……」


 ああ、確かに良く似合っている。

 ぼくにぴったりで、最高の首輪だ。


「ごめいとーぅ。でも、それが幸いしたよね? だからわたしは、ゆうくんの様子がおかしいことに気づいて、現場に急行することが出来たんだから」

「それは逆ですよね? 先輩はどうしてそんなに、ぼくを殺人鬼に遭わせたかったんですか」

「へえ? そう思うんだ?」

「女と見間違うような恰好をさせたのは、ぼくが変質者に襲われやすくするためですか」


 ぼくは店長の言葉を思い出す。

 最近、夜中に女性をワゴンに引きずり込む変質者が出ているらしい――


「どうだろう? ゆうくんに女の子っぽい恰好は良く似合っているけどね」


 綾乃先輩は口笛を吹くようにうそぶいた。


「先輩は、ぼくを変質者に殺させたかったのですか」

「それは違う」


 綾乃先輩は毅然として言った。

 強い目だった。


「わたしを信じて、ゆうくん」

「けれど、だったらなぜ……」


 綾乃先輩は、ぼくに女物の服を着せ、GPS付きの腕時計を着けさせて――


「昨夜、いたずら電話めいたことをしたのは、ぼくが終電に乗り遅れて徒歩で帰らざるを得なくするためですか」

「違う。電話をしたのは、そういう目的じゃないよ」


 先輩は、溶け終えそうな蝋燭ろうそくをいっそ吹き消すように、小さくため息をついた。

 そして告白する。



「人殺しに逢ってみたかったんだ。わたし以外の人殺しに」



「……先輩は人殺しなんかじゃない」

「けれど、私の未来はそうなると決まっている。だって私たち、約束したでしょう?」

「……」


 ああ、その通りだよ。

 確かに、約束をした。

 けれど、それは……。


「……先輩は、」


 ぼくは、いつの間にかカラカラに乾いてしまった喉から絞り出すように言う。


「人殺しと相見あいまみえて満足でしたか」

「うん? そうだね、だいたい思った通りだったな。人殺しって――気持ち悪いね」


 真実、それが彼女の感想だったのだろう。

 ぼくが見る先輩の瞳に濁りは一点もなく、今宵ぼくたちの頭上で瞬くあまたの新星よりも余程輝いている。


「だから、わたしは彼を見て――心底ぞくぞくしたよ」


 先輩は両手で自分の肩を抱いた。震えていた。


「……」


 先輩の言葉に嘘が何一つなかったとして。

 それが果たして彼女のすべてなのだろうかと――ぼくは思った。

 思いたかった。


「先輩」

「なあに?」

「本当に人殺しとの邂逅かいこうを望んだのなら、あなたが率先して狙われればよかったのでは?」


 考え直してみれば、回りくどいにも程がある。

 ぼくをにして殺人犯と遭遇しようなんて、運頼みもいいところだ。


「ええっ、そんなことを言っちゃうのかい、ゆうくん。仮にも自分の彼女に!」


 先輩はコミカルに両手で頭を抱えてみせた。


「それでまかり間違ってわたしが殺されてしまったらどうするの。取り返しがつかないよ」

「殺されるわけないでしょう」


 ぼくの知っているあなたなら。


「冷たいなあ。知っての通り、わたしは夜中に出歩くことはできないんだってば。ママの監視が厳しいんだから」


 高台の豪邸に住まうお嬢様――柿原家の一人娘はそう言った。

 確かに先輩はぼくと違って親御さんからバイトも禁止されているし、予備校がある日以外は、門限は午後六時だという。

 毎晩、不審者に襲われるために裏路地を徘徊するわけにはいくまい。


「明日は日曜日とは言え、あと二時間以内に帰らないとママが起きちゃうよ」

「そんな危険を冒してまで助けに来てくださって、どうもありがとうございました……」


 親バレしかねないなんて、命にも代えられないような危険を冒して下さって――

 ぼくは深く下げた頭で、はたと気づく。


 それははじめ、砂粒ほどの違和感だった。

 しかし、すぐさま悪性のウイルスさながらに指数関数的な増殖を始める。


 危険を、冒す――

 そうだ――綾乃先輩は多大なリスクを冒している。

 否、冒し過ぎている――


『人殺しに遭ってみたい』――


 綾乃先輩の欲望の一端いったんを知るぼくならば、その動機は納得がいくものだ。

 だが、そのために取った手段には違和感が拭えない。

 彼女にしては非合理に過ぎる。


 考えろ。

 ぼくの知る彼女なら――


「先輩は、人殺しに遭いたかったんじゃない――」


 綾乃先輩の瞳の色が変わる。


「――人殺しを、殺したかったんだ」


 もっと言えば――


「先輩は、殺したかったんだ」


 ただ。

 ただ、殺したかった。

 あるいは、傷つけたかったと読み換えてもいい。


「けれど先輩は誰も傷つけられない。けれど相手が人殺しなら話は別だ。そう考えたんですね?」


 正当防衛。

 刑法三十六条第一項によれば――

 急迫きゅうはく不正ふせいの侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、これを罰しない。


「相手が自分や誰かを傷つけようとするならば、その身を守るためにやむを得ず反撃ができる……」


 先輩の目的は――防衛のための反撃にこそあった。

 すべては――ぼくとの約束を守るためなのだろう。

 あの夜の、二人の約束を。


「誰かを拉致監禁して今まさに暴行しようとしている相手なんて、まさに先輩にはうってつけだ……」


 とはいえ、先輩のやったことを踏まえれば、過剰防衛もいいところだが――

 先輩は面白い御伽おとぎばなしを読み聞かされている少女のようなうっとりした顔でぼくを見つめている。


 推理ドラマや探偵漫画で、こんな幸せそうな顔をして探偵の推理を聞いている犯人役を、ぼくはいまだかつて見たことがない。

 当然、先輩は犯人ではないし、ぼくは推理役だとしたら役者不足もいいところなのだが。


 それはさておきだ。


「先輩、二つだけ教えてください」

「ふむ? なにかな」

「一つ目――あの男は死にましたか」

「いや、死んでないよ。小屋を出る前に脈を診て生存を確認している。まあ、両目を潰された男が無事に山から下りられるかと言えば疑問だけどね。あの状況じゃ助けを呼ぶこともできないし」


 嘘ではないだろう。ぼくもあの男は生きていると考える。

 死なない範囲で傷つけた――とはいえ、生存した場合、当然、後日お礼参りされるリスクがある。そのリスクを最大限まで減少させるために、あの目潰しをしたというなら納得ができた。


「ゆうくんとの約束、私は守ってるでしょう?」

「……そうですね」

「いい子でしょう? ねえほめてよ」

「……えらい、えらい」

「心がこもってなぁーい」


 約束。

 先輩とぼくの約束だ。


 彼女は今のところ、確かに約束を守っている。

 それは同時に、ぼくに対しても約束の履行を期待しているということで―― 

 ぼくはうつむく。そして思い直す。


 約束、だなんて。

 笑えてきてしまう。


 ぼくたちの間に重く横たわっているのは、約束なんて可愛らしいものではない。


 契約――

 ぼくと先輩を結ぶのは、呪われた契約にほかならない。


「あれから五年か。約束の日まで、もうすぐだね。今年の夏は私たちにとってどれだけ特別な季節なんだろう。ねえ、ゆうくん?」


 先輩は笑って言った。

 ぼくは答えない。頭を軽く振って、言う。


「二つ目の質問です――あの男の目を潰す時、先輩に殺意はありましたか」

「……夜が明けてきたね。タイムアップだよ、ゆうくん」


 東の空がしらんでいる。遠くから新聞配達のバイク音が聞こえる。国道には物流トラック以外のクルマも少しずつ増えてきた。


「二つ目の答えは、来年あたりにもう一度聞いてよ。覚えていたら教えてあげる」


 言って、先輩はフルフェイスを被るとバイクに跨った。

 ぼくは黙ってその後ろにつく。


 来年、ね。


 ぼくが来年にはこの世にいないことを知りながら、そう言う先輩はなかなか意地悪だ。

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