1-7

 うす昏い影の中から彼女の声が聞こえた。あの日の夜だった。光は一筋も差さなかった。人々の笑い声や街の明かりからは遠く離れて、虚空の闇に二人きりだった。


『君はだれ?』

『……』


『君に私を止める権利なんてないよ。命令しないで』

『…………』


『どうしてそんなことを言うの。君には何の関係もないのに』

『………………』


『ねえどうして?』

『……………………』


『君はおかしなひとだね。私と同じくらいおかしなひとだ』

『…………………………』


『わかった、約束だよ。だけど、必ずその時まで君には生きていてもらうから』



『ああ、約束する。だから君も、その時まで絶対に――』



 


「くッ……」


 ぼくは五年前の悪夢から醒めた。


 目覚めと同時に、耐えがたい痛みが胸から腹にかけて襲ってきた。それから冷たく固いものを頬と肩に感じた。


 どうやら――ぼくは床に転がされているらしい。後ろ手に手錠をかけられ、足首にも何かを巻かれている。目も口もガムテープのようなもので二重に塞がれている。服は着たままのようだ。首を動かそうとした瞬間、激痛が走った。思わず唸る。


 そういうことか……。

 恐らく。

 ぼくは背にスタンガンのようなものを押し当てられた。

 その後、首を絞められて失神したのだ。

 目覚めたところで、視界は未だ暗闇のまま。


 演者も観客もぼくひとりの悪夢は、今もなお絶賛上映中らしい。


 はてさて、ここは一体どこなのか……。

 鼻を利かせてみると、鉄や錆、埃のような匂いがした。人が住む建物ではなく廃屋や物置のような場所にいるようだ。

 耳を澄ましてみるが、物音一つしない。車や電車の音もしない。静謐だ。人里から離れた場所だろうか。


 ぼくは苦し紛れに、身体を死にかけの芋虫のように揺らした。

 部屋の隅まで行き当てば、壁に押し当てて、目隠しのテープを外すことが出来るかもしれない。だがその前に後ろ手が引っ張られた。手錠が柱か何かに引っ掛けられているようだ。


 これは、かなりまずいな……。

 ぼくは今、悪意ある者に襲われ、囚われている。

 果たして目的は――単なる拉致なのだろうか?


 その時だった。


 ギシリ、ギシリ、ギシリ……。


 どこかから足音が聞こえてきた。

 同じ部屋の中ではない。壁を隔てた別の場所だ。

 だがしかし、確実に。


 誰かがいる……。


 胸の鼓動が途端に激しくなる。止まらない。


 足音が止まる。猫の短い悲鳴のような、扉が開く音がした。


 ヒタヒタと床を裸足で歩く音が聞こえ――ぼくの頭の前で止まる。


 乱暴に髪を掴まれた。頭を無理やりに上げさせられ、目隠しが外された。


 目の前には――男がいた。

 お手製だろう、奇怪で不格好な黒い仮面を着けた男が。

 充血した目だけが、飢えた獣のように爛爛らんらんと輝いていた。


「ンーッ、ンーッ!」


 ぼくは叫ぼうとしたが、ガムテープが塞いでしまう。

 ぼくたちのいる場所は、窓が一つもない薄暗い部屋だった。

 裸電球が一つ、天井で揺れている。


 果たして――

 ぼくがそれに気づくのには、わずかな時間を要した。


 おびただしい量の血飛沫ちしぶきの跡――

 赤黒くなった血が床にも壁にも――天井にまで、大量にこびりついている。


 ぼくは部屋の中央に転がされていた。

 傍には、調理場に置かれるような大きなステンレス台があり、その柱に、ぼくの手錠が結ばれていた。


 部屋には禍々まがまがしい造形の道具が散乱している。

 先端が細かく裂かれた短い革の鞭、どす黒く変色した荒縄、外側にも内側にも棘の付いた首輪、妖しげな白い粉末の入ったビニール袋の束と注射器……。


 部屋の隅の方には、あの白い女が転がっていた。彼女は顔を壁に向けていた。


 玩具同然に頭を揺さぶられ――ぼくは再び男に顔を向けさせられる。


 男は黒いレインコートを羽織っている。

 その手には大鋏とペンチが握られている。


 男のレインコートの下は――全裸だった。


「ンンーッ!」


 ぼくが叫ぼうとする様を見て、男は鼻息を荒くし発情した豚のように唸った。

 男がぼくの頬を平手でしたたか打った。容赦のない全力の一撃が脳まで響き朦朧もうろうとする。


 男は乱暴にぼくの身体を掴みカーディガンのボタンを弾き飛ばす。カットソーを引き千切るように引っ張って、スキニージーンズのベルトを引き抜き、ジッパーを下ろして――


 男の手がそこで止まった。

 男の瞳の色が興奮から驚愕、それから困惑へと目まぐるしく変わる。


「男……」


 うっそりとした低い声だった。


「長く愉しめる……」


 男の息が更に荒くなり、ぼくに覆い被さってきた。狂犬病の野犬のように口元から涎を垂らしていた。

 男は大鋏おおばさみを使い荒々しい手つきで、ぼくのカットソーを切り刻んでいく。胸から腹が露出した。

 男はぼくの腹をしばらく見ていたが、やがて仮面の下で嗤ったことがはっきり分かった。


 ――殺される。


 ぼくは確信したが、しかし恐ろしさは微塵も感じなかった。

 ただ――


 彼女との約束を守れなくなることだけが、悲しい。


「イイ顔だァ……」


 男がわらっている。

 その手の大鋏を大きく振り上げた――

 刺さる――


 ぼくは目を閉じなかった。

 不意に仮面の男の背後が光る。


「ォオオオオオオッ」

 

 それは屠殺とさつされる豚の断末魔に似ていた。

 大鋏の切っ先が、ぼくの眼前で逸れ――床のタイルを引っ掻いて金切り声を上げる。

 ぼくに覆い被さっていた男の全身が脱力し倒れかかってきた。


「ウウーッウッウッウッ……」


 男が苦悶くもんに身をよじらせ呻吟しんぎんしている。生臭い息がかかる。黒いレインコート越しに熱く汗ばんだ男の肉と体臭を感じる。吐きたくなるほど気持ちが悪い。胸が潰されて息ができない。


 ぼくにし掛かっていた男が引き剥がされた。

 男がぼくの隣に倒れこむ。


 その頭上には――黒い人間がいた。

 黒いランニングウェアを身につけていた――黒いスニーカー、アンダータイツ、ショートパンツ、ウインドブレーカーに――黒のフルフェイス。


 彼は倒れた男に、片手に持った何かを押し当てる。火花が散る度に男が絶叫する――スタンガンか。男の呻きが小さくなってくると、今度はバットを持ち出して、執拗に男の頭を殴り始めた。男にはもはや抵抗する力がなく、ただ打たれ続けている。


 男の動きが止まった。声も聞こえなくなった。

 黒い彼が、ぼくに向かってきた。

 手袋をめた手を伸ばして――ぼくの口を塞ぐガムテープを外した。


「はッ、はッ、はッ……ァ」


 声も出せない。呼吸をするだけで精一杯だった。

 彼は仮面の男が持っていたペンチを拾うと、ぼくの手錠を潰し切る。次に大鋏で足首に巻かれていた縄を切断した。


 彼に促され、ぼくは立ち上がる。


 彼は、ぼくから離れると、ペンチと大鋏を持って、ぐったりと倒れた仮面の男の前に立った。まだ息があるようだ。

 彼は男の仮面を引き剥がした。

 そして――


 男の目に――大鋏を突き刺した。


 一度、


 二度、


 三度、


 四度、


 五度、


 六度、


 終わらない。


 絶叫はもう聞こえなかった。

 その顔から鮮血が飛び散る度に、男の全身が波打つ。


 彼は大鋏を投げ捨てた。


 男は痙攣けいれんし続けている。身体中の血管に熱湯を流し込まれたかのように、震え続けている。

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