1-6
「ゆうちゃん、ここはね、この三角形にも余弦定理を適用するのですよ」
「成程……あとは公式を当てはめればいいわけですね」
「そうそう、そういう感じ! そうしたらこっちの応用も解けるはずなのです」
ぼくが数学の問題を解こうとするたび、小さな手がテーブルの反対側から伸びてきて、ノートと問題集の間をちょこまかと往復する。そしてその指摘のすべてが的確なのである。
「高屋敷華、恐るべし……」
「え? 何か言いました?」
「いや、さすがK大学の学生だなって……」
ちなみに経済学部生らしい。
「ふふん。ティーカップ・ゴーストで日がなお皿を割っては、ゆうくんに片付けてもらっているだけの高屋敷華ではないのです」
正直、こうして勉強を教えてもらうまでは、伝説の全自動式お皿割り職人・皿屋敷華さんだと思っていたから、かなりの驚きである。
午後十時過ぎ――終業後の喫茶店ティーカップ・ゴーストで、ぼくと華ちゃんはいつも通り、テーブルで肩を並べていた。店長は娘さんと約束があるとかで早引けしているので、店には二人だけだった。ぼくはテスト前勉強の追い込みに、華ちゃんは大学のレポート課題に取り組んでいる。
「しかしゆうちゃん、今日の私服、なかなかにカワイイですね」
「ああ、今日は昼間出かけていて、ここに直行してきたので……」
ぼくは窓ガラスに映る自分の姿を見て、ため息をつきたい気分になった。
今日のぼくのファッションコーディネイトは――真白い細身のロングカーディガンにカットソー、浅めの黒スキニージーンズ、グレーのロースニーカーである。鞄はネイビーのミニトートバッグだ。手元の腕時計がややごつめなのだけが救いか。
「ゆうちゃんが選んでるんですか?」
「いや……」
もちろんコーディネイターは綾乃先輩である。
「彼女さんですか? センスいいですね、ゆうちゃんに良く似合ってますよ。 中性的な感じで、まるで女の子、というか美少女……」
「女の子はやめっ……ごほっ、ごほ」
「更に病・弱! これは女の私でも守ってあげたくなります!」
ときめき始めた華ちゃんをよそに、ぼくはマスクを着け直す。
「華ちゃん。そこ、漢字が間違ってますよ。完ぺきのぺきは壁じゃなくて璧」
「わあう! また直さなきゃ。もう今どき手書き必須のレポートなんて間違ってますよお。しかも明日締め切りだしぃ。あ、だけどここの土に線を足せば玉になりそう……」
「小学生みたいな
中身まで小学生になってしまったら、ぼくはもはやどう扱ったらいいのか分かりません。
そんな感じで夜の勉強会を過ごしていたぼくたちなのだが、いつの間にやら小一時間が経っていたらしい。
先に気づいたのは華ちゃんだった。
「あれっ、もう終電が終わりそうですよ!」
「そうか、今日は店長がいなかったから……」
いつもなら、店長が上がる時に一緒にお開きにしていたのだが、今日は彼が不在なことを失念していた。
「まだ走れば間に合いそうです!」
華ちゃんが晩秋のシマリスが頬袋にどんぐりを詰めるかの如く、凄まじい勢いで鞄に荷物をしまっている。しかし結局、ぼくの方が支度は早く、先に店内の戸締りを確認しておくことにした。
「店内は施錠を確認しました」
「さすがゆうちゃん!」
二人で店を出る。明日、早番である華ちゃんが裏口の鍵を閉めた。
「よし! それではっ、位置について……、よーいっ」
駅に向かって走り出す。華ちゃんのハムスターダッシュのペースにぼくが合わせている感じである。
もうすぐ駅に着こうかというところだった。
突如、ぼくの携帯が震えだした。着信しているようだ。
こんな時間に――?
ぼくは立ち止まり、尻ポケットから携帯を取り出した。
ディスプレイに表示された名前は――
「おっと、ゆう選手、ここでまさかのアクシデントかっ!?」
前方で、華ちゃんが足踏みして待っている。
「華ちゃんは先に行っててください。今ならまだ終電に間に合います」
終電まであと五分残っている。華ちゃんの最寄り駅は遠いらしいので、これは逃せないだろう。
「りょうかいですっ、ゆうくん、君の熱い走りは決して忘れないよっ」
「いやまた明日のバイトで会いますから……」
駆け去る華ちゃんを目の端にやりつつ、ぼくはディスプレイに表示された通話ボタンを押した。
だが、何も聞こえない。
「……綾乃先輩?」
ぼくは耳を外してディスプレイを見直した。
柿原綾乃――画面の表示はさっきと変わらない。
途端に通話が終了してしまった。こちらからかけ直すが、かからなかった。
「なんだ?」
念のため、先輩にメッセージを一言入れておく。
駅に着くが、既に終電は終わってしまっていた。華ちゃんは間に合ったのだろうか。
「さて、ぼくは……」
タクシーなんて贅沢が一般的男子高校生のぼくに許されるべくもない。携帯で地図を見つつ、最短ルートを歩き出す。駅から離れ、夜のピクニック気分で、街灯の消えた商店街を抜け、住宅街の裏路地を通り、線路の高架下をくぐる。やがて文明の利器に導かれて着いた先は、森林公園だった。
「そうか、ここを抜けろと……最近の地図アプリは高性能過ぎるな」
昼間に公園内の図書館に来たが、この深夜では雰囲気がガラリと変わっている。よく見れば、門の横に夜間は入場禁止と書いてあった。
「とはいえ、ここを諦めると数キロは回り道をしないといけないみたいだし……」
幸い、入口が閉ざされていることもなく、人気はゼロだ。
ぼくは意を決して中に入った。散策路に沿ってまばらな街灯があるが、公園内は闇の方が遥かに勝っている。携帯のライトが頼りだ。昼間は子供たちの笑い声が響き渡っていた芝生の広場も、今宵は人っ子一人いない。木立の合間から、ぐずつく赤ん坊のような不気味な泣き声が聞こえてくるが、きっと発情期の猫だろう。そう信じたい。
人工池の脇の木道をガタガタと足音を立てながら通る。もうすぐで出口に着く。
わずかに安堵した――その時だった。
ぼくは茂みの中に見える、それに気づいた。
「え……?」
木道を外れ樹林に入った先、一層闇が深くなるところに、白いものが見える。
人間、だろう。
白っぽい服装をしているようなので、この薄闇でも気づけたということか。
ぼくは携帯をしまい、駆け寄った。
「だいじょうぶですか」
返事はなかった。
女性のようだ。
うつ伏せになって倒れている。長い黒髪が散らばるように地面に広がっていた。
「まずいな」まるで反応がない。ぼくと同じように近道をしようとして誰かに襲われたのかもしれない。「今、救急車を呼びますから、しっかりして」
ぼくは彼女の肩に手をかけた。抱き起こすようにして顔をこちらに向けさせた。
そして――ぼくはようやく気付く。
女の目はカッと見開き、ぼくの顔を見ていた。
赫い――赫い瞳だった。
ああ――確かにこれは。
呑み込まれてしまいそうに、赫い。
喰い殺されてしまいそうに、赫い。
こんなにも赫い瞳で見つめられたら――この世界から消えたくなってしまう。
次の瞬間――ぼくの心臓は破裂していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます