1-5

「ゆうくんゆうくん」

「……何ですか?」

「呼んでみただけ」

「……図書館では、お静かに。無駄話はせず用件は必要最小限で伝えましょう」

「り。わ」

「それだと今度は必要最小限にも足りてないんですが……」


 省略しすぎです。


「了解。分かった」という意味なのは、何となく伝わったけれど。


 週末――土曜日の午後。

 ぼくと綾乃先輩は、県立図書館に来ていた。隅の方の大きなデスクに向かい合わせで座って、テスト勉強に励んでいる。これさえ終われば夏休み。特にぼくは、高校に入学して初めての前期末試験だ。自然、力を入れなければならないところなのだが――


「ごほっ、ごほ……」


 風邪の引き始めなのだった。愚かしいにも程がある失態である。そんなわけで今日は一日マスクをしている。

「ゆ」

「先輩?」


 かちり。

 先輩は碁石を打つかのように、ぼくの手元に飴玉を置いた。

 のど飴だった。


「ありがとうございます……」

「ど!」


 綾乃先輩は、にっこりと笑って言った。

 どういたしまして、なんだろうな。たぶん。


「ゆゆゆ」

「先輩……」


 たぶん、ゆうくんゆうくんゆうくんと呼びかけたかったのだろう。


「かだ? むきゃい?」

「ぼくが悪かったです。お願いなので普通に話して下さい」

「風邪は大丈夫? 無理しないで今日は休んでもいいんだよ?」

「空咳ですし、身体の不調や痛みはないので大丈夫です。気を遣わせて、すみません」


 そういえば、綾乃先輩が風邪を引いたところを、ぼくは今まで一度も見たことが無い。

 なんとかは風邪を引かないというが、意外にも綾乃先輩の学力は学年でもトップである。だが、なんとかと天才は紙一重とも言うしな……。


「ちょっと、外を歩いて気分転換してきます」


 ぼくは立ち上がると、心配そうにしている綾乃先輩を置いて、外に出た。

 図書館は広大な緑地公園の中にある。入口階段を降り、広葉樹の影の下を歩く。初夏にしては風が涼し気で散歩日和だが、少し雨の匂いがした。やがて咳は収まった。マスクを外す。気分が良い。図書館内はエアコンも利いているし、空気が乾燥していたのだろう。


 綾乃先輩の待つ場所に戻ろうと、幅広の大階段を上がっていく。

 その時。

 ぼくは階段の先に立っている彼女の姿に気づいた。


「あ……」


 思わず、見上げる格好になる。スカートの端からちらりと覗く小さめで形の良い膝小僧に、一瞬だけ目がいった。

 鴉の羽で編んだかのように黒いセーラー服、墨汁を流した小川のように黒い髪、切り揃えた前髪から、右目の下にしるされた泣きぼくろと、黒目がちの大きな瞳が見えて――今まさに、目が合った。


「屑。死ね」


 頭上から氷雨ひさめのような冷たい声が降ってきた。


「いきなりな挨拶だな……」

「女の子を下から見上げるような男には、これで十分」


 彼女には何もかもお見通しらしい。お礼を言いたくなるほどの正論に、ぼくはぐうの音すら出ない。


「……ひさしぶり、久遠」


 ぼくが言うと、彼女はそっぽを向き、ため息をついた。


 坂井さかい久遠くおん――


 悪友の阿久津とはまた別の縁で、ぼくの幼馴染で腐れ縁だ。


「……」

「……」


 無言で見つめあう二人だが――ロマンチックは特に始まらない。

 むしろ気まずさが止まらない。思い返せば、久遠とは相当に長い間会っていない。何を言うべきなのか分からない。


「お互い高校生になってから会ってないよな? 新しい環境はどんな感じだ? って久遠は中高一貫の女子校に通ってんだから、そんな変わった感じもしないのか。ぼくはさ……」

「……」


「そうだ。坂井神社、最近行ってないけど、神主さんや妹ちゃんは元気にしてる? 久遠はまた来年の正月も巫女のバイトをするのか? ほら、久遠っていつも秋冬はバイトのために髪を伸ばして、春夏は短めにしてるじゃんか。今日も短めだからさ……」

「……」


「あれ、そういえば今日は土曜日だよな。今気づいたけど、久遠は何で制服なんだ?」

「……」


 久遠は、暫く押し黙ったまま、ぼくの目をじっと見つめていたが、


「あんたさ、まだあの女と付き合ってるんだ?」


 吐き捨てるように、言った。


「あの女……?」


 まさか――綾乃先輩のことを言っているのだろうか。

 戸惑うぼくの顔を、久遠ははかるように、じっと見ている。


「付き合ってなんか、ないよ。前にも言ったことあるだろ」

「嘘吐き。いつも一緒にいるじゃない。あんたが高校に入ってからなんか、特にそうでしょう。あんた、追っかけるようにしてあの女と同じ、S高校に通うなんて」

「何で知ってるんだよ」

「ここで見るから。この図書館で勉強してるところ」


 見かけてるなら、声をかけろよ……と思ったが、言わなかった。


「付き合ってるっていうと、語弊ごへいを招く。それは違う」

「語弊なんて、ゆうのくせに難しい言葉を使うのね」

「そこは突っかかるところじゃないだろ」

「生意気になったわね、ゆう」


 取り付く島もない。

 生意気になったのはどちらだと言いたくなるが、ぼくはぐっと呑み込んだ。今は綾乃先輩の話から、切り替えたくて仕方がなかった。


「そうだ、久遠。赫い目の女って知ってるか」

「はあ?」怪訝そうな目つきになる久遠。「なにそれ。赫い目ってそのひと、一体どこの国の人なの? 日本人じゃないでしょ」

「いやそうじゃなくて」


 意外だった。

 久遠が知らないとは。


「最近この街で流行ってるみたいなんだよ。坂井神社のご息女が知らないなんてな」

「ああ。そういう話なの?」


 詐欺師か、ぺてん師でも見ていたかのような久遠の目が、いくらか和らいだ。

 何しろ――坂井神社は、この街において最大のオカルトの集積地だ。日々、心霊的な相談事が持ち込まれているとも聞く。そして心霊現象かどうかは定かではないが、赫い目の女もオカルティズムに該当するであろうことに、疑いの余地はない。


 ぼくは久遠にその奇譚を説明した。

 綾乃先輩と華ちゃんから聞いた、正体に関する推論も含めて。

 久遠はそれを黙って聞いていたが、やがて静かに目を閉じた。


「……ゆうさ、やめた方がいいよ」

「え……?」

「そういうことに興味を持つのはやめて。あんたはそういうのと親和性が高いから、良くないの」

「どういうことだ?」

「あたしが思うに、あんたはそういうのに魅入られやすい体質だと思う。だからあんまりそういうものと関わらない方がいい」

「そういうのって……なんだよ」

「分かってるでしょ、あんたなら」久遠はまるで見透かしたかのように言う。「この世の中のうすぐらいところ。そういう処に集まるもの、すべてよ」


 久遠は、まっすぐにぼくの目を見つめて言った。

 先ほどまでの、嫌悪感を滲ませたような冷めきった目つきとはまた違った――凛とした真顔だった。


「……わかったよ、久遠。気を付ける」


 ぼくは素直に頷いた。

 優しい忠告をありがとう、久遠――ぼくは心の片隅で小さく呟いた。

 けれど既に手遅れなんだ――ぼくは心のどこかで彼女に謝った。


 何しろ。

 ぼくは千の夜も前から、うす昏いそれに魅入られているのだから。


「ん。わかればよろしいの」久遠も頷いた。「まったく。ゆうも素直なら少しは……」

「少しは、何なんだ?」


 ぼくが問うと、久遠はハッと口を押さえた。


「ち」久遠は舌打ちすると、ぼくから目を背ける。「なんでもないわよ。秒で死ね」

「なんでもないのに亜音速で殺されるのかぼくは!?」


 久遠の中で、ちょっとぼくの命が軽すぎじゃないか……?

 昔からキツい性格だったが、いくら何でもここまでではなかった気がする。

 ぼくが苦笑いをすると、久遠はそんなぼくを見て、じとりと湿っぽく睨んだ。


「はあ……じゃああたしは帰るから」


 久遠が階段を下りてくる。

 ぼくは階段を上っていく。


 ちょうど二人がすれ違おうとした時だった。


「あっ」


 久遠が小さな悲鳴を上げた――足を踏み外したのだ。

 ぼくは彼女の手を引く。引寄せて、思わず抱き留める格好になった。


 華奢な身体だった。力をかかりすぎて、その細い腕が折れないか心配にすらなった。肩まで切りそろえた漆黒の髪からは、石鹸のような透明で清潔な香りがした。


「大丈夫だから。離して」


 久遠がぼくの耳元で言った。


「悪い」

「いいの」


 繋いでいた久遠の手が離れる。再び下り始めた彼女は、心なしか早足だった。

 また転ぶよ――そう言おうとしたときにはもう、彼女は階段を下りきろうとしている。最後の一段を、幼い少年のように飛び降りた。


「ゆう。ありがとう」


 振り向いてそう言った彼女は、笑っていた。


「ねえ今度、よかったら……」


 言いかけたその時、彼女の笑みが凍りつく。

 ぼくを見た――のではない。

 視線の先は、ぼくの背後を見ていた。


 悪寒がした。すぐさまぼくは振り向く。


「ゆうくん?」

「先輩……」


 階段を上り切った先に、綾乃先輩が立っていた。


「なかなか戻ってこないから心配して来ちゃった。公園で行き倒れて泣いてるかもと思ってさ」

「さすがにそこまで虚弱じゃないので……」


 ぼくはペットか何かだと思われているらしい。知っていたけれど。


「そちらの方は?」


 先輩は、久遠の方に顔を向けて言った。二人が初対面だったことにぼくは気づいた。というよりも、先輩が久遠のことを今初めて認識したということだろう。


「ああ、こっちはぼくの幼馴染の……」

「坂井久遠」


 ぼくの紹介を遮って、久遠がぶっきらぼうに言った。


「……こちらは、柿原綾乃先輩」


 ぼくは久遠に向かって言った。

 久遠は、いっそ清々しいくらいに無反応である。


 綾乃先輩は、


「くちおちっ!」


 何の挨拶か不明だが、なぜか満面の笑顔だった。

 その言葉遣い、気に入ってしまったんですね……。


 二人は、しばらく見つめ合っていた。

 否、睨み合っていたのだろう。

 一瞬とも永遠とも思えるような、ぼくの冷や汗が一リットルほど流れ落ちるくらいの時間が経過すると、


「……意味わかんない。二人だけに通じる合言葉か何かですか? 馬鹿じゃないですか?」


 言って、久遠は振り向かずに立ち去った。

 黒い塊のような軽蔑が、その言葉にこもっていた。


 合言葉ねえ……。

 ぼくは綾乃先輩の顔を改めて見た。


「ゆ?」


 先輩は、不思議そうに言った――いや、鳴いたとでも言う方が正しいか。

 遠くなった久遠の背中を見て思う。


 なあ、久遠。

 これはぼくにも全く意味が分からないよ。

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