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「赫い目の女の子?」


 綾乃先輩が、ストローから口を離して言った。


「女の子、なのかはわかりませんがね」


 女じゃなくて女の子と言い換えただけで、急に不気味さが失われるから不思議だ。赫い目でなく赫い靴の女の子であれば、港町の銅像になれる程度には愛されたかもしれない。


 自分の性別の意義を問い直したくなるようなショッピング悲喜劇が終わった後、ぼくたちはファッションビル内のカフェでお茶をしていた。


「けど、わたしも聞いたことがあるかも。最近じゃないなあ。小学生になったくらいの頃か、その前かな。リバイバルヒットだね」

「二十世紀の歌謡曲みたいに言わないでくださいよ」


 だが都市伝説も歌謡曲も、その本質は近しいものかもしれない。人の口の端を媒介しては感染し、止め処なく蔓延はびこっていく。生まれたときは誰かの口笛や出まかせだったとしても、いつのまにか輪唱りんしょう絶唱ぜっしょう大合唱だいがっしょうのオルケストラになっている。


「当時と今で、流行する背景に共通点があるのでしょうか」

「実にいい質問だね、ゆうくん」先輩は突如何の脈絡もなく、大学教授風になった。「思うに街並みの変化が関係しているのかも。今わたしたちたちが居るこのビルもそうだけど、駅前西口は、近頃開発されたばかりじゃない」


 開発が始まる前までこの西口は、反対出口と比べて寂れたものだった。それがこの数年でバスターミナルが整備され、周辺道路が拡張されて一気に人通りが増えたのだ。既に立っていたビルの改装だけでなく、新たな施設の誘致も始まっているとか。


 だからそう、つまり。


「前に赫い目の女が流行った頃は、駅前東口が開発されていたんじゃないかな」


 ぼくたちが小学生になるかならないか――もう十年も前のことだ。

 何しろ幼い時分だったのでろくに覚えてはいないのだが――街全体を、地図さえも書き換える程の大規模な都市開発だったという。


「わたしがこの街に引っ越してきたのも、その頃だったしね」

 この駅を見下ろすことのできる高台に、上品な邸宅が有名洋菓子店のショーケースに陳列するホールケーキのように規則的に配置された新興住宅街がある。その一画が綾乃先輩の住む豪邸なのだった。


 噂が命を得るには、人の口が必要。

 多ければ、多いほど良い。


「一理ありますね」


 人の流入が増える都市開発に合わせて都市伝説が生まれるのは――道理だ。


「しかし、赫い目というエピソードは何を由来にしているのでしょう」

「民間伝承や日本昔ばなしと同じような理由なのかも」

「え?」

「東口を出てしばらく行くと、古くからある海浜工業地帯に着くよね。あの辺りって昔は公害騒ぎがあったらしいの。光化学スモッグとかね」

「ああ、大気汚染の一種ですよね。昔は注意報が出ることもあったとか」

「煙ったように視界が濁って、喘息の原因にもなったり。それこそ――目を真っ赤に腫らしてさ」

「それが、赫い目の正体だと?」


 赫い目の赫は、充血しきって濁った瞳の赫なのだと。


「前にも流行ったことがあるってことはさ、そのまた前にも流行ったことがあるのかもしれない。もしかしたら、わたしたちが生まれる前にも」

「一種の警告が繰り返されているということですか。この街では公害が起きたことがある、今後も起きるかもしれないぞって。それが人々の間を伝播し承継されていくうちに、都市伝説に変容したと」


 昔話が子供たちへの教訓となるように、赫い目の女という都市伝説は、この街の住人となる者たちへの忠告ということなのか。


「ゆうくんは、やっぱりいいひと。わたしが見込んだだけある、素敵なひと」先輩は首を傾けて、静かに笑う。「ゆうくんの言うとおりかもしれない。けれどわたしはこうも思うな。これは、誰かの恨み」

「恨み……?」

「工場を経営する大企業へ、住民が遺した怨恨と鬱憤の一つの形だよ。公害って、健康被害を訴えても、取り合ってもらえるばかりじゃないでしょう」

「成程、そういうことか……」


 小学生の社会の教科書に載るような有名な公害病でさえも、被害が認められるまでに数十年もの歳月を要している。いわんや光化学スモッグをや、ということか。


「表立って大企業を訴える資力も知恵も手段もない、けれど光化学スモッグの被害を受けて苦しんだ人たちが囁いた小話が由来なのかもよ」


 であるならば、それは物語でないといけない。

 物語の形をとれば、人々の間を行き交うのだ。

 まるで流行りの唄のメロディを、歌詞の意味も分からずに口ずさむように。

 く人口に膾炙かいしゃすれば、やがて物語は生き続けて、もはや絶えることが無い。

 そしてそこに託された思いも、遺り続けるのだろう。

 だとしたら。


「赫い目の女が襲ってくることもなく、カップルの女が脈絡無く消えるだけという、意味の分からないオチも理解ができますね」


 人々を怖がらせるのが目的ではないのだから。

 赫い目の女がそこにいたという事実だけを、覚えていて欲しいのだから。

 自らの苦痛を訴えたい誰かが遺した、稚拙で切実な、海底よりも深い怨嗟えんさの唄――。


「憶測だけどね」


 先輩は舌を小さく出して言った。

 ぼくは飲み終えたアイスコーヒーの氷が、音を立てて溶ける時まで、会ったこともなければ存在しているのすらわからない、その赫い目の女のことを想っていた。

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