闇がさらう (5)

 三度目の波が引いてから、一度、外に出て見ることにした。

「ちょっと、出てくる」

「大丈夫……?」

「ああ、あの子を探さないと……」

「私も……」

 由希が腰を浮かしかけたが、楓に制された。

「ダメだよ、折れてるかもしれないんだから……! 私も行くから、そのままでいて」

「頼む……由希」

 うなだれながら由希が頷いた。

「お願い……明梨を」

 由希の声がかすれてくる。

「連れ来るから……」

 それだけ言うと、出口に向けて一歩踏み出した。


 ドアの前は人だかりになっていた。修二と同じく、家族が気がかりな人たちだろうか、外に出ようとする人たちが、難儀している。ちょうどドアを開いたところで、混雑していた。

 人ごみに押される形で、ようやく外に出た。

 元来た道を引き返そうと坂まで行くと、見えてきたのは

「あ、ああ……!」

「なんてことなの……」

 街は、文字通りなくなっていた。空襲でも受けたかのように倒壊した建物の残骸が、あちらこちらに浮いている。

 両膝をついて、うなだれる。これでは、明梨の生存も絶望的、かもしれない。

「しっかりしなさい! 日が沈む前に探し出さないと!」

 楓に首根っこをつかまれて、無理やり立たされた。

「どこを探せってんだ……!」

「……きっと高いところに避難したはず」


 目を凝らして、街を見渡す。この高地以外は、ほとんど建物が残っておらず。まばらに倒壊を免れたビルやマンションが見えるだけだった。

 上空には、自衛隊のヘリが周辺を旋回していた。生存者を探しているのだろう。

「手分けして、しらみつぶしにビルを当たるのよ」十八時までにここに戻って、暗くなったら戻れなくなるから!」

「わかった……!」

 既に、ここまで来るだけで、体力の限界だったがそれでも足は動いた。

「明梨ぃ!」

 目についたビルの屋上まで上がっては叫ぶ。既に五棟目、疲労でめまいと吐き気がしてきた。

 棒のような感覚の足を、無理やり酷使して、走り続けるもとっくに限界を超えている。このままでは二次遭難しかねない。


 だけど……! だけど!


 娘を助ける。それが自分の使命であると、今になって自覚できた。

 道なき道を進む、なんども転倒して、打ち身と擦り傷で全身に痛覚が走り、どこを負傷したのかも、もうわからなくなっていた。

 

 日没が近づいてくる。傷だらけで体温も水に浸かってかなり奪われている。夜が迫ってくるという事実が焦燥をたきつける。照明なしでこんな所にいれば、一晩で命すら危ういかもしれない。

「ああ!」

 角材のようなものにつまずいて、ついに倒れ伏した。道とも思えぬ道に滞留している海水に頭をから突っ込んだ。

「う……」

 泥まみれの顔を天に向けて、虚ろな視線を投げかける。


 あか……り……。

 一ケ月前のあの日、唐突に自分の娘と言われた幼女、なんの愛情も感じなかった。微塵も自分になつくことなく、自分も彼女をどことなしに疎外していた。だが、今は……。


 俺は……なんのために……。


 なんのために記憶を失ってまで生きて来たのか、そう思った時、なにかが見えた。

 疲労のあまり陽炎の如く歪んで見える視線の先、がれきの山の上に、倒壊して流れ着いたどこかの橋が道を作っているように見えた。


 これは……。


 いつか見た光景、夢の中、海にかかる橋を渡った、あの日の夢。記憶を失ったあの日、確かにここを通った。

 もう動かないと思っていた足がいつのまにか地面を踏んでいた。体が自然に誘導されていく。あの夢で、橋の先にあったのは山だった。デジャブのように、同じ光景が、実在として見えてきた。

 橋の先に、鳥居が見える。


 そうか、ここは……。


 以前、由希と通りかかった、神社へと続く山ではないかと推測した。そこにこの橋が流れ着いた。あのおぼろげな夢の記憶をたどるように先へと歩いていく。破損した橋の付け根が山に突き刺さるような形で擱座していた。

 橋を越えた先には坂があり、さらに階段が見える。

「……?」

 黒い鳥が止まっていたように見えたが、すぐに見えなくなった。

赤い鳥居が階段の脇に傾いている。津波の衝撃を受けたのだろう。今にも倒れそうな鳥居をしゃがみながらくぐり、坂を上がっていく。


 俺はあの時、今と同じように……。


 予知夢だったのかもしれない。記憶を捨てさせてまで伝えたかった夢。棒になりそうな足が自然に前へと動いていく。

 鼓のような音が脳に直接響いてくる。修二を導いているかのような、断続的な音、それが確かにこの上から聞こえる。

 たどり着いた頂上、波はここまで来たようで、運ばれてきたがれきや自動車の破片が見える。

 目を凝らした。

静かな雰囲気をまとった石畳の先、小さな社がそこにあった。

 十五年前か一ケ月前、あの時、光輝いて見えたものはこれだったのだろう。近づいて、手を伸ばしてそっと開いた。

「あ……」

 小さな影が無数に見える、差し込んだ光に目が慣れるとともに共にその輪郭をはっきりさせていく。

 怯えたようにこちらを見る複数の目、毎朝見ていた制服を着こんだ幼児たちが身を寄せ合いながら震えていた。

そのうちの一人が前に出てきた。

茫然と見入る。服も顔も泥だらけ、なんの感情も伺えない、いつもの真顔、それでもその瞳が安堵を伝えてくる。そこにいたのは、

「パパ……」

明梨、一ケ月前に会ったばかりの少女、自分の娘と言われた少女であった。

「……う」

 脱力して膝を社の床に落とす。充血した目から、とめどなく熱いものがこみ上げて、流れ落ちていく。

 倒れ伏した自分の頭を明梨の手が触れた。

「ぐっ……」

 明梨を引き寄せ、固く抱きしめる。か細く、小さな体が脈を伝える。初めて、娘を抱きしめたのだと、気づいた。


 俺が……俺が、この子を守らなくて、誰が守ってくれるっていうんだ……。


 一度は捨てようとした、振り払おうとした。そんな自分が許せない。

 やっとわかった。自分に、この少女と過ごした時間が記憶としてあるかないかなど、どうでもよかったのだと。

「せんせいがここにって……」

 幼稚園の職員が、この山まで児童を連れて逃げて、この子たちをこの社に退避させたのだろうか。内部は狭く大人の姿は見えないので、外から扉を閉めたのだろう。辺りを見回すが人の気配はここ以外にない。職員たちは流されてしまったのかもしれない。彼らの無事を祈った。

「おうちなくなっちゃった……」

 弱弱しい声、目元に水分がたまっていく。自分が弱いところを見せたからだと、恥じ入った。

「大丈夫、さあ帰ろう、お母さんが待ってる」

 明梨を抱きかかえて、他の幼児たちを先導しながら、社を出た。

 体温が低下していないか心配だったが、手にははっきりと熱が伝わってくる。しかし、十二月前、ここを見つけるのが一晩遅ければ危うかったかもしれない。それを思うだけで、恐怖で足元がおぼつかなくなる。

 山を下りた時に、あの学校までこの子たちを連れて行けるか不安になったが、ようやく携帯で助けを呼ぶという選択を思い立った。

 こんな状況でも電波は一応通じているようで、携帯から楓に明梨と幼児数名を救助した旨を伝えた。由希にも教えたかったが、彼女のものはこの混乱で紛失してしまったらしい。

 まもなく、水しぶきをあげながら自衛隊の輸送車がやってきた。幼児たちを荷台に上げてしまい、修二も乗り込むと、

「く……!」

 とうとう足が、動かなくなってしまった。


 ガタが来たってやつか……。ここまで酷使したのは生まれて初めてかもな……。


「……?」

 明梨が修二の足に両手をあてて、目を閉じた。

「ありがとう……」

 トラックが発車した、道なき道を行くだけあって、振動が苦痛になったが、なんていうことはない。

「明梨こっちに」

 腕を伸ばして娘を抱き寄せた。不安げな様子でいる他の児童たちを見ると、申し訳ない気がしたが、今はこうしていたい。

「ママは……?」

「大丈夫だよ、ちゃんと避難している。すぐ会えるから」

 擦過傷だらけの手で明梨の頭をやさしくなでる。遠目に船が陸地まで乗り上げているのが見えた。

 ビルがなくなり、沖の彼方まではっきりと見渡せる。丘陵から川が海に通じている構図となっていたのがわかった。初めて、この街の、この地の元々の形を見えたような気がした。

 こうビルがあちこち生えてちゃ、自分がどこにいるかもわからない、祖母の言葉の意味が少し理解できた。

 トラックが、学校に近づいてきた。顔上げると、何人か待ち受けているのがわかる。由希と楓もいる。手を振って、無事を伝えたかったが腕が上がってくれない。

 トラックが停車すると、隊員たちが子どもを順々に降ろしていく。修二も最後に肩を支えられながら降車した。

「ゆ……」

 言葉も出なくなった。固く抱き合いながら、しゃがみ込む由希と明梨。子どもと一緒に子供のようにわんわん泣く彼女を、ただ見守る。

「お疲れさん……」

 楓が、ぬれタオルを頭に置いてくれた。彼女も満身創痍といった様子に見える。

「ああ……」

 とうとう、脱力して地面に腰を落としてしまった。


 夜の体育館で、静かに体を起こす。追い打ちのような豪雨が、屋根を激しく叩く。一晩、発見が遅れていたら、と思うだけでゾッとする。

 すぐ横で眠っている妻と娘に視線を移す。相当な疲労と泣き疲れで、完全に寝入っていた。

奥に見える楓も同様で自分たちのためにここまで骨を砕いてくれた、彼女に詫びたくなる。あ

の後、両親とは連絡がついた。波は西浜区までやって来たが、地上わずかな浸水で済み、父も家も無事とのことだった。奥山からも連絡があり、取り合えず無事を伝えた。彼は経営している塾をしばらく休校にして、救助、復興作業に携わる気でいるらしい。修二もそれに加わるつもりでいる。

 その後、誠一からも連絡があった。東山区は比較的被害が少なかったようで、彼の口から吉本の無事も聞かされた。ただ、職場のタクシーがすべて流されてしまったらしく、前途多難であることも知った。できる限りの協力は惜しまない気でいる。

 由希の手は未だに明梨をきつく抱いて離さない。そんな二人を見て、密かな決意が胸に去来した。

 親にならなくてはならない、今からでも。

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